3月 12 2018
ドゥルーズ=ガタリは哲学における高次元思想のようなもの
ヌーソロジーに登場するケイブコンパスのモデルは、ゼロ年代に入ってドゥルーズ=ガタリの『アンチオイディプス』と出会ったときに、それこそ雷鳴の轟きのようにして一気に下りてきたものだった(笑)。それからというもの、僕の中ではOCOT情報とドゥルーズ=ガタリの思想はほとんど同じものに見えている(下図参考)。
ドゥルーズ=ガタリにはもう一冊『千のプラトー』という傑作がある。『アンチオイディプス』がヌーソロジーでいう次元観察子(人間の無意識の欲望機械)の内実についての本だとするなら、この『千のプラトー』の方は大系観察子(器官なき身体)の形成についての本のようにも読める。とにかく凄まじい破壊力を持った鉄槌のような本だ(下写真)。
この『千のプラトー』を読んで、「すべてが知覚の問題である」と語るOCOT情報に深く合点がいった。つまりは、時系列的に秩序立てられていない無時間の領域から大地(自然)の成り立ちをイメージする必要があるということ。そして、そのためには、空間の理念的質料の基礎がどのように構成されているのかを知る必要がある。でもって、その場所は素粒子構造以外にない——というのが、目下、ヌーソロジーが出している結論である。
地層化の反動として蠢いている霊的思考の欲動を、いかにして、この理念的質料の方向と接続させるか——その作業が、ほんと難しい。
時空は物質をミクロからマクロにわたる地層として構造化する。素粒子→原子→分子→DNA→細胞→植物→動物→大地→地球→太陽系→銀河系etcといった具合に。しかし、これらはあくまでも、時系列的な分配によって表現された上っ面の構造に過ぎない。人間はこの構造に沿って、滑るように知覚し、撫でるようにしか思考できない。いわゆる対象化の思考だ。
思考されるべきは、その分配の原理の方である。そこに精神本来の運動がある。精神は常に一義的なものであり、精神の中で時間的距離や地層的な乖離が意味を為すことはない。つまり、そこでは分子の化学反応と人間の言語活動は重なり合い、DNAを通して諸惑星が周回し、鉱物の中で思考の情念が結晶化する——そんな描写が可能となる世界なのだ。
無論、地層化に慣れ親しんだ意識からは、このような知覚は狂気にしか映らないだろう。しかし、この一義的な運動を全うな正気と見なせるような高次知覚のプログラムが存在している。そのプログラムのBASIC言語となっているのが、素粒子が持ったトポロジーシステムであり、それが同時に分配原理とリンクしているのだ。
ゼロ年代に入って、ほとんど忘れられつつあるドゥルーズ=ガタリの思想だが、素粒子がわたしたちの精神の母胎として見えてきた暁には、彼らが描かんとした内在平面の風景がよりコントラストを持った色彩の中に見えてくるのではないかと思ってる。
※下のケイブコンパス図、「資本主義機械のラットホイール」に訂正。
3月 28 2018
微分化された空間の先にあるもの
微分とは何だろう。学校では「瞬間的な変化の割合を求めるための方法」などと習ったけど、これは延長的な見方で本質を言い当てていない。ニュートン的だ。ライプニッツは、そこに「延長以外の何物かかがある」と直観していた。そして、この何物かに延長的なものの起源があると考えていた。
つまり、無限小の中に延長的なものの産出原理があると睨んでいたわけだ。この直観が晩年のモナドの思想へと結びついていく。つまり、無限小の世界には、決してそれ以上分割できない物質の大元となるものが眠っていて、それが精神(霊魂)だと。
「物質が物質によって作られる」ということは論理的にあり得ない。それだと、作られたものと作るものの差異がないからだ。物質だけなら、どこまでも、作られたものの連鎖が続くだけで、肝心の作るものが現れてこない。
だから、ライプニッツは考えた。物質はその根底で必ず分割不能なものに出会う——そして、彼はそれをモナドと呼んだ。
そして、ライプニッツが予感した通り、現代の物理学は物質の根底に分割不能な、というより、もはや延長的な物質とはその性質が根本的に異なる存在を発見した。それが素粒子だった、というわけだ。
物質と素粒子の間には延長と内包という意味で絶対的な差異がある。この差異の本質は、ライプニッツ風に言うなら、産出されるものと産出するものとの差異だ。つまり、素粒子は作られたものではなく、作るものだということ。何を?—もちろん、物質を。ということになる。
物理学の素粒子理論はほんとに素晴らしいものだと思うが、追いついていないのは、そのイメージの方だ。物理学者のほとんどは、相も変わらず、素粒子を物質と同じイメージ、つまり、作られたもののイメージで見てしまっている。粒子であれ、ヒモであれ、同じこと。
だから、ビッグバンから宇宙が始まって云々・・・といった、例のあのお決まりの、見る者がどこにもいないにも関わらず、あたかも誰かが見ていたようにしてしか描けない、奇妙奇天烈な宇宙創生の歴史の物語が生まれてしまう。内包性がもぬけの殻なんだよね。
素粒子が物質を作り出すものだとすれば、作り出すもの側から創造を見ないと正しい宇宙の歴史は見えないのは当たり前。この部分を僕らは是正しないといけない。でないと、せっかくのこれまでの科学的成果が、ありもしない幻想の中に人間を閉じ込めてしまうことになる。これほどもったいない話はないよ。
外在世界における素粒子の登場は、「実は宇宙というのはすべて内在だよ」ということを告げるサインじゃないかな。あとは、素粒子に対するイメージ(描像)なんだよ。想像力とも言っていい。それが生まれてくれば、僕らを苦しめていた超越的なものは退散し、人間が正しく宇宙を見れる時代がやってくる。
そう思うんだけどね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: モナド, ライプニッツ, 素粒子