1月 22 2010
不動の身体
現在、僕の頭を支配しているのは不動の身体感覚をどうやって知性に浮上させてくるかということ。もし身体が全く動いてないとしたら空間はどのように見えるのか。また、モノはどのように見えるのか。そのときの時間感覚はどのように変化するのか。仕事や家庭生活の合間に少しでも時間が空けば頭は即座にその問題についての思考に切り替わる。病気だ(笑)。
最初にすぐに気づくのはモノの運動と身体の運動の根本的な相違だ。身体と世界の関係は運動においては相対的なものとなっている。だから、立ち上がるなり歩くなり宙返りするなり、自分の身体を動かせば必然的に世界全体が動く。この場合、身体を不動のものと見なせば世界全体の方が平行移動するなり、回っていると言える。しかし、モノ一個の運動はどうかと言うと、身体の運動とは相対性を持っていない。モノはあくまでも世界の中の一ローカルな座標として世界に対して相対運動をしているだけだ。
このことからまず予想されるのは、モノと身体とは見てくれは同じ物質でも、その空間的な階層は次元を異にしているということだ。無限数のモノで構成されている世界自体は確かに身体と相対的な関係にあるが、一個のモノはその相対関係が作られている世界空間のその下部次元に位置している。物理学的に言えば、モノ一個の空間は座標にすぎないが身体の空間は座標系となっているということだ。
さて、身体を不動のものと見なしているとあくまでも視覚的な意味においてなのだが、主体極と客体極というものが普段に増して強く意識されてくる。簡単に言えば、不動の身体が持った位置感覚と眼前に敷かれた奥行き上の一点の関係性である。わたしは世界を目撃するのはつねに奥行きにおいてであるし、外界に対する意識の志向性は常にこの奥行き上のベクトルもどきとして働いている。客体極をノエマとするなら、主体極から客体極に放たれるベクトルもどきがノエシスと言っていいだろう。この場合、奥行きの深さは一般に時間と呼ばれているものに対応している。
目の前の鉛筆、たばこ、コーヒーカップ、壁に掛けた額……。わたしが眼差す対象は次々と移り変わっていくが、不動の身体においては世界側がグルグルと回転しているに過ぎない。
今度は立ち上がって部屋の中を歩いてみる。世界が大きく動き出す。部屋の窓が近づいてきて、外の風景が見え出す。対象極には今度は屋外の風景が入り込んできて、近くの弁当屋や遠くのテレビ塔をまるでカメラの焦点合わせのようにまさぐり出す。しかしその方向は依然として眼前であることに変わらない。そこで僕はふと思う。主体極から対象極までの奥行きには時間があるのは分かる。問題はその向こうだ。対象極の向こう側には一体何があるのか。
今度は外に出て真っすぐ歩いてみた。遠くに小さく道路標識が見える。それを対象極にセットして、どんどん接近を試みた。対象への接近は不動の身体から見ると対象極を原点とする三本の直交する線(x,y,z)が次々にスルスルとその対象極を通過してすべっていくかのように見える。いや、三本の座標軸が主体極を折り返し点にしてそれぞれの方向にただ回転しているかのようにも見える。ふと気がつくと、さっきまで小さくしか見えていなかった道路標識が目の前に大きく立ちはだかっていた。
——進入禁止。
どひゃー。こうして、僕は不動の身体感覚を持ってしても対象の背後には絶対に侵入できないということが分かったのだった。
この見えないカベを超える所作が反転の身振りである。おそらく、そこに見えてくるのは自分の後頭部に違いない。もちろん、不動の身体としての。
2月 12 2010
フッサール伯父さん
最近、めっきりブログを書かなくなってしまった。
と言ってヌーソロジーの構築作業を怠っているわけではないのよね。来るべき日に備えてシコシコとヌーソロジー体系の補強作業に勤しんでいるのには全く変わりはないのだけど、いかんせん、ツイッターというものが出現してしまった。このツールが何とも便利で「ついついツイッター」「いついつイツッター」という乗りで、ツイッターで現在行っている思考作業のポイントをまとめられてしまうので、ブログにどうも食指が動かないというのが偽らざる実状。
最近は現象学とヌーソロジーの関係を整理する意味で、現象学中心のお勉強を続けているのだけど、現象学の祖であるフッサール伯父さん(どことなく怒った時のカーネル伯父さんに似ている)には何とも共感してしまう自分がいる、というか、ひょっとしてワシはフッサール伯父さんの出来の悪い霊統ひ孫ではないか、なんて思ったりもする。フッサール伯父さんは人生のその大半を哲学的思考に費やしている。レベルの差は歴然とはしてはいるが、それはわしとて同じ。それも普通の人ならほんの数秒で通過してしまうような知覚の現場を半年ぐらいネチネチと考え続け、あーでもないこーでもないと思案し続けた。そんなどーでもいいようなことになぜそこまで固執するのか——普通の人には全く理解できない。は~い! それもわしと同じ。
フッサール伯父さんの偏執ぶりはたとえばこんな具合だ。目の前に郵便ポストがあったとしよう。郵便ポストは見る角度によって当然その見え方が違う。正面から見れば口がついているが、後から見ればただの赤い鉄柱に見える。しかし、郵便ポストという認識は、様々な角度から見られたそれらの知覚像の綜合によって意識に構成されることが可能となる——こんなことを春に大学の講義で語り始めたフッサール伯父さんだが、秋になって半年経って教室を覗いて見ると、まだ同じ話を延々と続けていたというからすごい、っていうか、すごすぎ。これもわしと同じ(笑)。
要はフッサール伯父さんは本来、学生に知識を伝授する講義という場で自分の思考の現場をそのまま垂れ流しにしながら、現象学という素晴らしい学問体系を作り上げていったのではないかと推測されるわけだ(何とこれもわしと同じではないか!!)。著書にしても同様のふしがある。『論理学研究』(1900年)から『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1937年)に至るまでのフッサール伯父さんの執筆活動で、立論がグラグラと二転三転しているフシがある。つまり、フッサール伯父さんの論立てはお世辞にも論理が一貫しているとは言えない。(しつこいようだが、これもどこかの誰かさんとそっくりだ 笑)。哲学の大先生ともあろうものが、このあいだ言ってたことは間違ってました。ほんとうはこういうことなんです。というのを何回も繰り返していれば、それこそオオカミ少年よろしく学問の世界では信用されなくなるのが当たり前なのだろうがフッサール伯父さんは違う。それでも大哲学者として名を残している。フッサール伯父さんの偉いところは自分の過ちは素直に認めることができる能力の持ち主だったところだ。さらには困っている仲間がいれば喜んで手助けをした。そくな徳の持ち主だからこそ、人々は彼の理論にも真剣に付き合い続けることができたのだと思う。思考者、それも思考の限界で思考し続ける人にとって、フッサール伯父さんはほんとうに勇気づけられる人なんだよね。僕がハイデガーが嫌いなのはフッサール伯父さんにほんとに世話になっておきながら、この恩人を売るような真似をしたところ。別に善だ悪だと騒いでいるわけじゃないけど、哲学の永遠のテーマは他者ではないのか、という意味でハイデガーほど独我論者はいなかったのだろうと思う。もちろん哲学的才能としてはハイデガーに軍配が上がると思うけど、人間性はフッサールの格段上だ。
立論が二転三転したフッサール伯父さん。でも、この人が挑戦していた作業を思えばこうした二度や三度のボタンの掛け違いなど取るに足らぬ失態にすぎない。(と言って、どさくさにまぎれて陰に自分をも擁護している?)フッサール伯父さんがいたからこそ、ハイデガーやメルロ=ポンティやサルトルやレヴィナスやデリダが登場し、哲学は生き延びて現代思想の潮流を作り上げたとも言えるからだ。ヌーソロジーも原ヌーソロジーの後に続く、新生ヌーソロジストたちが出てきてくれるのを待ちわびているんだよなぁ。いや、将来、必ずそうなる——そうやって、今日もまた郵便ポストの見えについて考えているフッサール伯父さんのできそこない似の自分がいるのであった。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 8 • Tags: サルトル, ハイデガー, フッサール, メルロ・ポンティ, レヴィナス