8月 7 2010
カバラは果たして信用できるのか?——その7
前回よりのつづき――
では、無の一滴へと変貌した存在者はいかにしてその無を新たな有へと変換していくのか、そこで展開される始源の第一原理とは何なのか。ルーリアのツィムツームはその原初に起こる事件の風景を見事にスケッチしているように思われる。——神は創造に当たって自らを収縮させ、神の内部から撤退した。その撤退跡には神による創造の場が用意され、自らを創造するものと創造されるものの場の二つに分けた——このツィムツームが創造の契機となる出来事であったとすれば、このツィムツームから生じる神の自己収縮は継続して行われていく必要がある。すなわち、一は二を生じ、二は三を生じ、三はすべてを生ずというように。でなければ、神のみが創造の場に存在するだけに終わってしまうだろう。それゆえ、ツィムツームとして生起するこの〈神の充満/神の撤退〉という最初の分化の間にはそれに引き続いて「思慮深い弁証法」が存在しなければならない。ここで”思慮深い”と言ったのは、もはやここで登場してくる存在の弁証法は(かつての)言語の体制によって営まれていた存在者における弁証法のようなものではあり得ないからである。
存在者における弁証法とはヘーゲルの世界精神を例に出すまでもなく存在者の多を存在の一へと導いていくような弁証法であり、これは神が自らを世界に充満させていくための方法論でしかない。つまり、神の自己膨張なのだ。これはニーチェのいうように否定的なものによる弁証法であり、最終的には世界をニヒリズムへと導いていく。
このへんのことは僕らの現在を見ればそれなりに想像はつくだろう。シミュラークルが作り出す差異なき差異の記号が世界に多を氾濫させ、グローバルな資本主義のもとすべての価値が貨幣という一者に換算され、均質かつ一様な空間の中で帝国的なものとそれを内在化させた超越論的自我が睨みをきかすといった監獄(パノプティコン)の風景——そこではもはや経験的自我が自分自身の生に対して意味を問うことは悪い冗談でしかなく、理性にできるレジスタンスと言えばせいぜい自分が置かれたその絶望的状況に冷笑を浴びせかけることによって自らのナルシシズムを満足させることぐらいだ。何をやっても無理なんだよ。宗教?哲学?芸術?ふふ、まぁ、せいぜい頑張りな。人間死ねばすべてが終わりなのにオメェーもほんと好きだな。所詮、生きることに意味なんぞねぇーんだから、いい暮らしして、いい女抱いて、適当にやっておくのが一番だぜ——超越論的なシニフェの体制(快感原則)はこうして外部を隠蔽し、内部を空虚な腐敗へと向かわせる。外部を否定すれば内部は自らの内部たる根拠を失い内部=無を露呈せざるを得ないにもかかわらず、だ。現代という時代の状況はまさにこうした典型的な受動的ニヒリズムに覆い尽くされており、存在が存在者にかけた呪いがあらゆるところで露呈してきている時代なのである。
一方、肯定的なものを先手に持った弁証法はそのようなニヒリズムが極まったところで、つまり一者が自らが作り出した世界を覆い尽くしたところで、まさに一者自らによる存在者からの撤退によって出現してくる。言い換えれば、それは存在世界からの存在の撤退とも言える事件である。これがさっきからリフレインしているプラトニズムの逆転、すなわち生命の樹の逆転、ユダヤ的精神からの解放、すなわち、ニーチェが言うところのニヒリズムの極地に出現してくる「すべてのものにおける価値転換」である。
この肯定的なものによる弁証法は否定的なものによる弁証法とは全く対峙するものであるがゆえに、当然のことながら後者とは真反対の性格を持つ。かつ、肯定的なものによる弁証法は、否定的なものと肯定的なものそれら両者を視界に捉えることができるゆえに、一の中における多性と多の中における一性、その双方を弁証法的に統合していくビジョンを所持している。言い換えれば、それは一なるものから分化を起こしていくことが同時に高次の統合を生むような弁証法のスタイルを採っている必要があるということである。こうした弁証法は自分のうちに絶えず収斂する運動と、同時に自分の外へと向けて無を展開する運動という二重の運動を持たなければならない。創造の展開=生成とはこうした条件を満たして初めて出現してくる現象なのである。
——つづく
8月 14 2010
カバラは果たして信用できるのか?——その8
前回よりのつづき――
では存在そのものへと変身を遂げた存在者はいかにして無を有へと変換していくのか、また、そのときに存在へと変身を遂げた存在者には新たなる創造のためにどのような身振りを要求されるのか――ルーリアの説くツィムツームのビジョンをそこに重ね合わせてみることにしよう。
存在は創造に当たって自らを収縮させ、存在の内部から撤退した。その撤退跡には存在者の場が用意され、そこに収縮によって点と化した存在とその反映物としての全き空無が姿を表す。それがツィムツームの風景である。ここから存在世界自体が自らの在り方を刷新していくためには、このツィムツームによって生じる神の自己収縮と自己展開が継続して生起していくような深い弁証法が要求される。それはツィムツームの後に生ずる最初の対関係である〈点と空間〉の統合それ自身が新たなツィムツームとなって不断に差異の生産を生起させていくような弁証法である。このような弁証法は弁証法が持ったシステム自体を絶えず自らのうちに収斂させていくような運動と、同時にその反対物を自らの外部に向けて絶えず展開する運動を合わせ持つような二重の運動となる。反対物として外部へと展開される方はシステム自身に付加される負の運動であるから、システム全体においては常にn+(-n)=0が成り立ち、全体としてツィムツームを通して為される創造は無の自己展開といった様相を帯びなければならない。
こうした〈統合-展開〉の連続性は存在者としての単一性を存在としての単一性とへ収束させていく働きと同時に、存在としての単一性を存在者としての単一性へと展開していく働きを同時に合わせ持っていることが分かる。つまり、光の流出という創造者による原初の一撃は存在者からの上昇(多なるものを一なるものへと変換していく)であると同時に、存在からの下降(一なるものを多なるものへと分割していく)という二つの流れを同時に持ち合わせている必要があるということである。言い換えれば、創造のプロセスにおいては分割と統合における全体と部分の関係が、つねに全体=部分、さらには部分=全体というようにミクロとマクロの対称性が常に保たれながら展開されていく必要があるということだ。
このようにルーリアのツィムーツームを創造原理として受け入れ、その展開に一貫性を持たせるためには生命の樹のあるべき姿は自ずとあらわになってくる——つまりは、既存の生命の樹に加えて、そこに上下、左右が共に反転したセフィロトの樹を重ね合わせ、生命の樹自体を両性具有化させ、内部にキアスムを含み持つ立体的な樹木へと変身させなければならないということだ。それによって初めて生命の樹と知識の樹は創造の樹木として統合され、僕らはツィムツームの原理に満たされた創造空間が持つ真の対称性に触れることができるのだ。
世界は無数の存在者で満ちている。そして、それらは時空という存在者全体を統括する「一なるもの」の存在によって現前している。創造の終わり=始まりにおいては、この「一なるもの」にツィムツームの雷鳴が轟く。ここにおいて時空は一気に点へと収縮するのだが、それは同時に新しい存在者を生み出すための光の種子となる。時空としての一者が点的一者へと変身を遂げ、観念の原初へと立ち戻るのだ。こうした立ち戻りがヌーソロジーが「反転」と呼ぶ所作であり、そこに出現するものが全きヌース(旋回的知性)で駆動する創造のメルカバーである。
——おわり
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カバラ関連 • 0 • Tags: カバラ, ツィムツーム, 生命の樹