8月 16 2010
カバラは果たして信用できるのか?——その9
思わず「おわり」と書いてしまったが、大事な事を書き忘れていた。
それは生命の樹と上下・左右が反転した生命の樹、これら二つの樹木の本質的な意味についてだ。こうした考え方を生命の樹の見方に導入すれば、当然のことながら、各セフィラーはすべて二つづつ存在していることになる。ケテルとマルクトに関して言うならば、ケテルがマルクトになり、マルクトがケテルとなっている裏のセフィロトの構成が存在してこそ初めて生命の樹は生命の樹足り得ているということである。お互いがお互いの倒立像を映し合う双対のセフィロト像——これらはおそらく自己側から見た生命の樹と他者側から見た生命の樹の関係である。つまり、自己と他者の間では生命の樹は互いに反転していると見なす必要があるということだ。
例えばこう考えてみよう。〈わたし〉にとって物質世界と呼ばれているところは確かにマルクトに対応させることが可能だろう。しかし、〈あなた〉にとって果たしてそこはマルクトと呼べる場所となっているのだろうか。〈わたし〉が物質世界をマルクトと見て、〈あなた〉も自分の見てる物質世界をマルクトと見なし、かつ、それら両者がもし同一のマルクトであるとしたら、〈わたし〉と〈あなた〉の間にはいかなる差異もないことになってしまう。しかし、これは世界の在り方の事実に全く反している。というのも、〈わたし〉には〈あなた〉の顔が見えているが、〈わたし〉自身の顔は見えていないということだ。顔とは、顔の前において世界が開示するという意味において、世界の中心とも言える場所である。その中心たる顔を〈わたし〉自身が見ることができないという事実は、世界の中心がまだ〈わたし〉のもとには開示していないということを如実に表している。
つまり、〈わたし〉において〈わたし〉の顔が不在となっているということは、存在の中心が常に欠如した状態として現れているということだ。もしくは,〈わたし〉は世界の中心が欠如したまさにその状態を〈わたし〉と呼んでいるにすぎない、ということでもある。そして、この欠如した中心=〈わたしの顔〉を世界の立ち現れの中に経験しているのは言うまでもなく〈あなた〉という存在である。ということは、世界の真の完成の状態、神が創造物の全体を自身の反映として見るという状態は、〈わたし〉が〈あなた〉のもとに赴き、そこで〈あなた〉の顔を見ている〈わたし〉の顔を見ることによってそこで初めて達成される、ということになる。このことは一体何を物語っているのか——。
つまり、神から見れば、〈わたし〉が目撃する〈あなた〉という存在の中にはすでに〈わたし〉が含まれており、〈あなた〉が見ている世界とは、その〈あなた〉の中に含まれた〈わたし〉自身が〈わたし〉の現出を〈わたし〉の顔貌として経験する全一の場となっていなければならないということだ。また、この逆のことも言えるだろう。すなわち、〈わたし〉の目の前には確かに〈あなた〉の顔が現前しているが、それは〈あなた〉という存在はすでに〈わたし〉をその中に含んており、〈あなた〉は〈わたし〉という存在を創造することによって、〈わたし〉を通して自分自身の姿を世界の完成した姿として見よう欲したのだ、ということである。〈あなた〉は〈あなた〉の創造物である〈わたし〉を通してこうして今、〈あなた〉自身の姿を見ているのだ。
このような関係で〈わたし〉と〈あなた〉の関係を見たとき、〈わたし〉にとって〈あなた〉が目にしている物質世界はもはやマルクトではあり得ない。〈あなた〉が〈わたし〉を通してみる〈あなた〉自身の顔は、あのアイン・ソフ、神が神を見る場所としてのケテル以外の何ものでもない。つまり、わたしがマルクトと呼ぶ世界は、あなたにとってはケテルとなっていると言わなければならないのである。
このように考えれば、ケテルの中に刻まれたヘクサグラムの形象の意味も自ずと明らかになる。それは〈わたし〉と〈あなた〉という存在の二重性の相互浸透性を意味するものであり、これはハシディズムの流れをくむ哲学者であるブーバーの言い方を借りれば「永遠の汝と我」の端的な象徴と言ってよいものとなる。この「永遠の我と汝」が対峙する場所をカバリストが言うように単にマルクトと見なしてしまえば、〈我―汝〉の関係はそれこそブーバーが言うように〈我—それ〉の関係に貶められてしまうしかない。なぜならば、カバラの教えにある通り、マルクトを底辺とするアッシャー圏の中には自我しか存在せず、そこに出現してくる他者は他の存在者と同じく「汝」ではなく「それ」へと還元されてしまうしか術がないからだ。つまりは〈わたし〉は〈あなた〉を他の創造物と同列に見てしまう以外、他のいかなる視座も持ちようがないということである。事実、人間の世界ではそれが頻繁に起こっている。〈あなた〉を〈それ〉として利用し、〈あなた〉を〈それ〉として拒絶し、〈あなた〉を〈それ〉として破棄する。そして、愛においてさえも〈あなた〉を〈それ〉として愛しているにすぎない。しかし、ブーバーが言うように〈我-汝〉の関係は決して〈我-それ〉というものには還元できない何ものかなのである。
ここに同じくユダヤ思想の影響を大きく受けた哲学者レヴィナスの言葉を引用してもいいだろう。レヴィナスは「他者は未来からやってくる」と言った。そして、他者の顔には「汝、殺すべからず」と書いてあるとも。これらの言葉の真意もまたブーバーの永遠の汝と我を通して読むとその真意がよく見えてくる。それは〈わたし〉の真の未来が〈あなた〉となって今、〈わたし〉の前に現前してきているということではないのだろうか。レヴィナスは宗教家ではないのでもちろん口に出しては言わなかったが、ユダヤ人としての彼が言いたかったことは、実は〈わたし〉の本性は神であり、〈わたし〉が創造者となってすべてをこの世界のすべて創造をし、その最終的な完成体として他者を創造した。そして、今、こうして、ここで〈わたし〉は〈あなた〉を目撃し、〈あなた〉もまた〈わたし〉を目撃している。だからこそ、他者の顔には「我こそは真の汝なり」という意味において「汝,殺すべからず」と書いてある、と言いたかったのではないか。おそらくケテルから見れば、自己と他者とは互いが互いの未来から互いの過去を神と人間の関係として見ているのである。そして、こうした永遠の汝と我の関係に人間としての〈わたし〉が気づいたとき、神は「神が神を見る」というあのケテルにおけるアイン・ソフの本質的意味に到達することになる。これは、世界の終わりと始まりの結節が出現することの意であり、ここに光の流出が起こるのである。
こうした論証だけでもユダヤの神が孕んでいる欺瞞は露になるのではないか。つまり、神が一者であるはずがないのだ。もし、神が全一における単一性として君臨しているならば、それは神の停滞であり、神の怠慢であり、神の欺瞞である。その欺瞞が〈わたし〉と〈あなた〉を同じマルクトの中に閉じ込めているのだ。カバラはその意味でまだ大きな矛盾をはらんでいる。カバリストたちがヤハウエと呼んできた神=一者は今こそ生命の樹におけるケテルの名において告発されなければならない。ユダヤ的ロゴスの最終的良心として。
——おわり
8月 19 2010
新しい外部を目指して
昨年8月に始めた今回のレクチャーシリーズも今度の8月21日(土)の開催で予定の全12回を終了する。過去のシリーズでは回を重ねる度に参加者の人数が激減していったものだが(笑)、今回のシリーズは準備も入念に行ったことも手伝って最後まで参加者が目減りしなかった。実に有り難いことだ。拙いレクチャーにもかかわらず辛抱強く参加し続けていただいた参加者の皆さんには、この場を借りて心からお礼を言いたい。
さて、肝心のレクチャー内容にについてだが、自分が今伝えたいことを全部伝えられたかというと、まだまだ説明不足な部分が多かったという反省点が残る。今回のシリーズでは、結果的に各回約4時間、全12回で延べ約48時間にわたってヌーソロジーに関して喋りに喋りまくったということになるのだが、全体像から見れば、おそらくまだ半分も語れていないかもしれない。パフォーマンス自体のクラルテとエクステンドについてもまだまだ満足できるものにはなってはいない。構造的な部分に関する数学的な裏付け、風景伝達における詩情豊かな表現、あと図表などのデザイン性の追求など、これらは僕の中ではヌーソロジーを今までにはない思想のスタイルにするための必須事項なのだが、それらをレクチャーというライブの場で表現するにはもっともっと自己錬磨が必要だ。
でも、収穫も多々あった。僕自身ヌーソロジーの全体像の骨格がようやくはっきりと見えてきたということだ。ヌーソロジーは宇宙論の体裁はとっているものの、その本質は人間論である。いや、もっと言えば自己-他者論である。前回のブログ記事でも書いたが、M・ブーバーの言葉を借りれば「永遠の汝」への語りかけである。永遠の汝へと物質という架橋を使って到達するための方法論の展開である。もちろんこの道のりは果てしなく遠い。到達地点があるかどうかさえもおぼつかない。しかし、それが自分のやりたいことなのだから仕方ない。何はともあれ、21日の最終レクチャーは辻褄合わせや細かい部分に萎縮することなく、自然体で楽しみながらダイナミックに終わりたい。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 02_イベント・レクチャー • 0