9月 15 2010
ヌースレクチャー2010・ファイナル
先週の土曜日(9月11日)、ヌースレクチャー2010ファイナルと銘打って、今回のレクチャーシリーズ終了の記念イベントを行いました(上写真は講演会後の懇親会の様子)。
イベント開始直前の会場はキャパ限界の人数で溢れ返り、もう熱気でムンムン。いつものレクチャーとはちょっと違った緊張感がみなぎっている。それもそのはず、今回のファイナルでは東京から某大手出版社のO編集長、M学院大学のT学長、そしてT大医学部のO助教授という3名のスベシャルゲストを招聘。いずれのゲストも僕の親しい友人でもあり、かつ、僕がヌーソロジーの構築を進めていく上で多大なる協力を惜しみなく与えてくれている恩人たちでもある(今回も多忙な中、足を運んでくれてありがとうございます!!)。
普段は冗談ばかりを言い合っているような仲間なので、僕自身、3人の紹介を硬めにするか柔らかめにするかで戸惑ってしまい、冒頭の挨拶ではもう噛みまくり(笑)。何とも締まりのない浮ついたスタートとなってしまったが、しかし、三人の講演が順に始まると次第に会場のボルテージも上がっていき、まずは一安心。
トップバッターのO編集長。彼とはもう20年ぐらいの付き合いになる。僕が言うのも変だが、メディア業界という混濁した世界の中で彼ほどピュアな精神の持ち主はほかにはいないのではないか。それほど純粋な魂の持ち主だ。今回の話も彼のそうした人柄を象徴するように「情報とは情(こころ)を報(しら)せることである」という彼独自の情報論から入った。なぜ、自分が半田という人物と付き合っているのか、長い交遊にもかかわらずなぜようやくここに来てヌーソロジーに関する本を出版しようと思ったのか、その経緯や問題意識を淡々と語ってくれた。ヌーソロジーの本を最大手の出版社から、しかも新書本として、出す、ということは彼にとってもやはりかなりの冒険なのだろう。そのなみなみならぬ苦労を知って頭が下がる想いがした。O編集長の御尽力に心から感謝!!
2番手はT大のO博士。のっけからいきなり博多弁のギャグの連発で会場は大爆笑?かと思いきや、皆は笑っていいものかどうかどうも戸惑っている様子。それもそのはず、ここは確かに博多なのだが集まっている人たちは実は半分以上が九州以外の人たちなのだ。O博士の読み違い、というか、僕がそのへんの事情をしっかりと伝えておかなかったのが悪いのだが。。しかし、そこはO博士持ち前の豪放磊落な人柄で簡単にカバー。しっかりと作り込んできたPower Pointによる緻密かつリズミカルなプレゼンでヌーソロジーとシュタイナー人智学の宇宙観の相似性を笑いを交えて説明し、皆の目を釘付けに。その後、話題は氏の専門のソマチッドや不老長寿の水とされるフンザ村の水の解説へと。。あっという間の1時間だった。
3番手はM大のT学長。T学長の語りはいつもパワフルで、その淀みのない力強い語りが聞き手にガンガン迫って来る。今日も例外ではなく「科学主義という思想から全体性志向の倫理学へ」というタイトルで、ヌーソロジーのような思想が出てくる必然性について歴史学、社会学、さらには政治学も含めた観点から、極めて明瞭かつ簡潔に語っていただいた。さすが学長!! という感じである。その中でも特に印象に残ったのが「ソウルスイッチ」という言葉。ソウルスイッチとはT学長の弁によれば、固定観念に縛られた旧い世界観から意識をシフトして、既存の思考様式の境界を超える契機となる思考のことを指している。果たしてヌーソロジーが時代のソウルスイッチに成り得るのかどうか——課題はまだまだ山積みだが、改めてふんどしを締め直してかからなくては思った次第デス。ありがとう、学長!!
僭越ながら、ラストは僕の話。まずは今回のレクチャーシリーズの内容の総括。前半部分は12回に渡って解説してきたヌーソロジーの宇宙ビジョンをケイブユニバースのモデルを使ってひとまとめに説明し、後半はこれからやってくる2013年以後の世界風景について、そのポイントとなる部分を「器官なき身体(ドゥルーズ)VS身体なき器官(ジジェク)」というキーワードを挙げて簡単に説明した。——これから人類はブレイン-マシン-インターフェイスやバイオテクノロジーの発達によって、必ずや主体性の解体という問題に直面していく。この解体は不可避なものであり、ヌーソロジーはこの解体に対するカウンターとして出てきた思考である云々——。前者がアトランティス的なものだとすれば、後者はムー的なものであり、世界はいずれこの二つの方向に二分していく云々——。最後は『シリウス革命』のあとがきの言葉で締めた。
さて、講演会のあとは30分ほどの休憩。その後、福岡ヌースレクチャーの元々の発起人である九州気功の会のY会長(この会長も実はかなりの猛者である)に乾杯の音頭をとっていただき、第二部の懇親会がスタート。早い話、飲み会である。普通、こうした飲み会は合間合間に何か余興を挟まないと場が盛り上がらないものだが、今回ばかりはファイナルということで皆のテンションも高揚していたのだろう。会場のあちこちでごく自然に談笑の輪ができ、ヌーソロジーはもちろんのこと、スピリチュアルな話や物理学や生物学の話、政治の話や、武道、芸術の話と、様々な話題であちこちが盛り上がり、会場全体を包む心地よい賑やかさが一向に衰える気配がない。片隅で一人淋しく飲んでる御仁も誰一人見当たらず、参加者全員が話の輪に加わり、約2時間半の長きにわたって歓談は続いた。こういう風景を見ると主催者冥利に尽きるというか、やっぱレクチャーをやってよかったというか、何かこみ上げてくるものがあるのよね。
1年間という長丁場のレクチャーにも関わらず全国各地から通い続けてくれた皆さん、どうもありがとうございました。さらには地元から温かい応援をくれた皆さん、本当にありがとうございました。そして、このレクチャーシリーズを影で支えてくれたスタッフのI君、W君、無償で撮影に協力してくれたEさん、この場を借りて心から感謝の意を表したいと思います。合掌。
10月 15 2010
外面知覚がミクロ世界に入り込んで何やら悪さを働いているというお話
ヌーソロジーロッジの「科学とヌーソロジー」のトピの中で夢野さんが紹介していたSさんの物理学教室、中身が斬新でかつ濃厚そう。参加したい。さすがブルックヘブン出身やね。この冒頭にある夢野さんへのSさんのコメントは面白い。
ヌーソロジーロッジの「科学とヌーソロジー」のトピ——こちらへ
空間の中にモノがあるのではなく、モノが回転して空間(時空)を作っているのがイメージできると思います。
まずは単純に考えて、モノの半径をR(+)^1としてそこに作用する回転群をSO(3)とすると、
SO(3)×R(+)^1→時空
という構成ができる。
さて、モノの回転と言ったとき、すでにモノという認識が前提とされている。ではモノの認識そのものはどうやって生み出されているのか。それについて考えなければならない。視覚にとってモノは平べったい像にすぎないので、それだけではモノの認識に至ることはない。モノが主観にとってモノであるためには、モノが周囲に放っている様々な見えをいろいろな角度から見て、そのときどきの視像を主体が想像できなくてはならない。つまり、モノという認識自体の中にすでに見えない回転運動が前提として含まれているということだ。しかし、ここでの回転は事物としてのモノの回転(SO(3))では決してない。また、それは主体がモノの回りを巡って作り出しているような回転でもない。モノは一瞬のうちに一挙にモノとして主体に把握されているのだから、そこにはもはや時間はなく、主体にとってはモノの見え(表相)をあらゆる位相から同時に見るような一括した認識である。
ここでキュビズムが頭をよぎる。周知の通り、ピカソやブラックの作品で有名な分析的キュビズムはこうした位置に人間の認識を解放させようとして生まれた芸術運動だった。しかし、所詮、無限数の視点から見たモノを絵画として表現するのは不可能だ。分析的キュビストたちの失敗は、この把持の状態(一挙に見ること)を絵画作品として表象化しようとしたところにあった。
視覚的表象はあくまでもヌーソロジーでいう「表相」次元に含まれるものであり、モノの認識において把持されているものはもはや表象ではなく、モノが違う角度から見ても別の視像を持っているという「主観における確信」ではないのだろうか。そして、そのような確信を裏で保証しているのは別の観測者、つまり他者に他ならない。だとすれば、モノの認識は自己だけで成立するものではなく、自己視線と他者視線のあいだに成り立っている間-主観的な対称性を持つ構造体であると言える。モノにおけるこの対称性の構造の把持を幾何学的に表現しているものがおそらくSU(2)ではないかと思われる。否、SU(2)という群で表現してしまうと回転のニュアンスが含まれてしまうので単にS^3(3次元球面)とした方がよいかもしれない(SU(2)=S^3)。この考え方においては観測の視線をスピノールとして解釈している(根拠は省略)。
さて、モノの認識の背後にこのような高次の回転が暗躍していると仮定すると、上でSさんが書かれている「モノが回転して時空を作っている」という内容は、モノ=SU(2)が回転して時空を認識しているという言い方に変えても全く構わないことが分かってくる。これは、元のモノの観念自体の成立がSU(2)で成り立っているとすれば、時空認識の背後には必ずSU(2)が暗躍していなければならないという意味でもある。こうして主観における外界「認識」のカタチは、
SU(2)×時空[SO(3)×R(+)^1]
というかたちで表現できることになる。
上の式の内訳を説明しておくと、
時空に対するノエシスの元となる力がSU(2)で、
時空というノエマが[SO(3)×R(+)^1]、
観察の志向性自体が×の記号で表されていると考えるといい。
このことは何を意味するのか――
ヌーソロジーにおいては点とモノは幾何学的に同相だと考え、これら両方を「点球」という概念で一つにとりまとめる。つまり、点とモノは「観念においては等しいもの」だと考えるということだ。これは物理学が物体を質点に還元してしまうことと似ているにも感じるが、その意図は全く違う。時空の広がりの認識はノエシスとしての点観念の拡張(膨張)によって構成される。点の観念は観念であるゆえに大きさはない。このときの点観念自体のカタチがSU(2)である。
運動によって3次元空間の広がりを構成する場合についても同様のことが言える。空間上を点が動く場合を考えてみよう。それによって空間が計量的に認識されていく。もしくは、計量的に認識されることによって空間という概念がそこに設定されているとも言っていい。いずれにしろ、点観念が存在しなければ、1次元も2次元も3次元もヘッタクレもない。しかし、その空間認識における力の根源的点ともいうべきものは内部にSU(2)=S^3の構造を孕んでいる。となるとそこに何が起こるだろう。そこでは直線が円環状に丸められ、結果的に3次元空間をまさぐっている点の直線運動自体が自己言及的に点自身の内部構造であるSU(2)の中に反映され、その運動を回転の位相の変化としてプラマイゼロになるように調整してくることだろう。この全体の帳尻合わせが物理学がゲージ対称性と呼ぶもののの本意となっているのではないだろうか。
このことから物理学が言う時空上の一点一点に貼り付いた内部空間(アイソスピン空間)とは、主観が時空を認識するための点の観念のことではないかという仮説をヌーソロジーでは立てている。そして、その点の発生の起源は自己と他者の視線の総体にある。何度も言うようだが、ヌーソロジーにおいては素粒子は物質ではない。それはわれわれの精神である。
外界認識はヌーソロジーでいうところの「人間の思形」そのもの。
ψ2→ψ4→ψ6→ψ8へのψ7の交差(上図参照)。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), ゲージ対称性, ヌーソロジー, 佐藤博紀, 素粒子, 表相