1月 12 2013
【ベルクソンの哲学】ヌーソロジー初心者向け
真の奥行きを取り戻すためにベルクソンはよく「空間化した時間」という表現をする。「空間化した時間」とは直線的に表象される時間のことだ。物理学が用いる時間軸などがその典型だ。こうした時間概念では現在=瞬間は直線上の一点で表される。そして時間の経過とともに現在はこの直線上を滑るように移動していく。
このような時間概念をベルクソンは徹底して批判する。というのも、このようなかたちで時間を概念化してしまうと、現在はどの現在を取ろうともすべてが均一的な現在になってしまうし、現在を現在として認識することもできなくなってしまう。現れてはすぐ消えるものが現在だとするならば、そこには常に瞬間の継起しかないのだから、時間は「無」に等しくなり、何も存在していないのと同じだ。
そこでベルクソンは「持続」という概念を持ち出してくる。持続とは簡単に言えば「現在はつねに過去を含んで成り立っている」というものだ。ベルクソンが「物質とは記憶である」というのもそのような考え方からきている。今見ている物質が現在であるなら、それはすぐに消えてしまうのだから、物質など存在しなくなる。ということだ。過去(記憶)は現在の「土台=根拠」となっているわけだ。
自分の意識を振り返ってみればすぐに分かると思うが、現在は過去とともにある。むしろ過去がどっしりと自分のうちに根付いており、現在はその表面のようなものにすぎない。現在とはポツンと点のようにあるものではなく、瞬間瞬間、成長している過去の皮膜のようなものなのだ。
そして、存在の実体をこうした成長し続ける「持続」として考えると、過去はすでに消えて無くなってしまったものではなく、過去こそが「存在するもの」であり、瞬間としての現在は過去の中の一部の古い現在として「あった」ものという方が正確な言い方になるのが分かる。つまり、過去が先にあって、現在はそこから反省されて表象化されているものにすぎないということだ。現在が過去を見ているのではなくて、過去が現在を見ているということ。
「自分の中にずぅーと続いているものがある」「そして、それはずぅーとあり続けているものであり」「始まりも終わりもなくずぅーとただ在る」それがベルクソンのいう純粋持続であり、ベルクソンにとってはそれがそのまま「精神」の意味となる。宇宙の実体とはこうした純粋持続としての「精神」にある。これがベルクソンの哲学の根幹だ。
この精神は、当然、人間の中にも息づいている。ただ、人間は自我を持つために、この純粋持続の極めてローカルな部分の中で閉塞されている。それを自分の一生と呼んで、死ねばすべてが無くなるとか思っている。ベルクソンに拠れば自我が死んでも純粋持続は実体としてあり続ける。
OCOT情報は「人間はまもなく死ななくなる」と言っていた。もちろんこれは人間の肉体が不老不死になるとかいうことではなくて、このベルクソンのいう純粋持続の中に分け入っていく超感覚的知覚を人間がまもなく獲得するようになるということを意味している。残念なことに現在はベルクソンの思想は神秘主義まがいのものとされ、今ではすたれてしまっているのだけど、それはベルクソン自身が純粋持続が活動する風景を具体的に描けなかったからにほかならない。
それが具体的に描写され、さらには多くの人に相互了解されるようになれば、それは新しい現実を作り出すことになる。その現実はもはや人間の現実ではないだろう。存在における実体(純粋持続)が持った現実である。そうした現実が今から開いてくると僕は思っている。
上写真はhttp://fukuyumini.exblog.jp/9669078からお借りしました。
1月 18 2013
エーテル空間を感覚化する方法
最近、facebookで「神秘学遊戯団」というサイトを主催しているKAZEさんから『エーテル空間』(G・アダムス著)という書籍を教えてもらった。KAZEさんとはNifty時代以来の邂逅で、当時、シュタイナー会議室を開いていた方だ。
読んでみて驚いた。というのも、『エーテル空間』というのは僕自身が「反転した時空」として長年考えてきたものと同じ場所のことを言っていたからだ。これ一冊でいろいろと示唆されることはあったが、同時にこの書籍のマズいところもいろいろと見えた。第一の難点はG・アダムスがエーテル空間を射影幾何学で説明しようとしているところ。第二点は前回も書いた純粋持続の視点が弱いために、エーテル空間を具体的に描写できないこと。この二つだ。
射影幾何学の何が悪いかというと、確かに射影空間というのはユークリッド空間の起源となるものなのだけど、概念自体がユークリッド空間の概念から派生しているために「同一性」の縛りから抜け出れない。その束縛が説明にも見事に襲いかかっていてG・アダムスの差異化への思考を妨害しているように感じる。
持続の視点が弱いというのは、エーテル空間がそのまま持続の空間であると言い切っていないところだ。エーテル空間は物質空間のように対象的に見る空間ではない。自分自身の意識を実体として感じとる空間だ。G・アダムスにはその視点からの説明があまりない。その点で読む人は何とも宙ぶらりんのサスペンス状態に陥ってしまうのではないか。
さて、ここからは完全にヌーソロジーからの持論になるが、シュタイナーのいう「エーテル空間」の構造は射影空間というよりも、3次元球面というカタチを基本にして考えた方が発展性を持たせることができるのではないかと思う(あとあと複素空間へとつなぐできる)。3次元球面は数学的には4次元空間上の球面で、球面と言ってもその形は3次元空間と同じだ。ただ違うのは無限遠が一点でくっついているということ。分かりやすく言うと、3次元のどの方向をとっても円になっているということだ。このカタチは通常の幾何学的な対象としてイメージしようとしてもまず不可能なので止めた方がいい。
3次元球面というカタチを理解するためには、3次元空間における無限遠点とは何かをまず理解しなければならない。無限遠と聞くと普通は「ずぅーと遠くの無限の彼方」をイメージしてしまうが、実はそんな方向には無限遠は存在していない。何しろ”無限”に遠いのだから、ずぅーと進んでも無限遠に行き着くはずはない。もっと言ってしまえば3次元空間の中には無限遠点は存在しないのだ。
だから、この無限遠点は3次元空間の中の「点」とは絶対的な差異がある。つまり、質が違うものなのだ。僕らが対象的に思考する幾何学はすべて「対象的」という意味で同質だ。だから、無限遠点を考えるときは対象的ではない「点」を考えなくちゃならない。そんな点なんてあるのか?と思うかもしれないが、それが空間に一つだけある。つまり、「観点」だ。「観点」とは世界を見ている自分がいる「点」ということだ。
周りに広がる無限の空間の中で「観点」だけが異質なのはすぐに直観できるのではないかと思う。何しろ、その観点があってこそ、世界が開いているのだから。その意味で観点は物質的な3次元空間には決して落とすことはできない。これを平気で落としているのが科学的世界観だと思えばよい。科学は無限遠ってどこだ?と聞くと、「それは物理学的には〈特異点〉に当たる」とか何だか難しい言葉を使って偉そうに言うのだけど、それは空間の妙を何も理解していないからだと思っていい。
観点とは無限遠点であり、僕らはそこから世界を覗き込んでいる。仮定として、こう考えてみよう。
さて、自分のいる場所を「無限遠」だと仮定すると、宇宙のはるか彼方には自分の後頭部があることになる。ここで、観点を自転させてみよう。つまりは、グルッと身体を回転させてみるのだ。そうすると無限遠の先にある後頭部としての観点も一緒についてくるのが分かる。変な喩えだが天球面とは自分の後頭部がビローンと開いたようなところなのだ。
物質空間では奥行きの回転は自分を中心としてイメージされているので、奥行きはその回転における半径のようにイメージされてしまう。しかし、エーテル空間では天球面上には自分の後頭部があるのだから、この回転は半径の回転ではなくて直径の回転のように感じてくる。これが非常に大事なところ。さて、このときの回転の中心点とはどこだろう?図を書いてその正体を確かめてみることにしよう(下図参照)。
ありゃりゃ。見事に反転してるわ。物質空間では自分の位置を0点と考えていたので、無限遠は外に広がるような感覚で捉えられていたのだけど、自分自身が無限遠点だということが分かると、かつての0点がこの無限遠点∞に移動するのだから、かつての無限遠は逆に0点に移動することになる。内と外の関係が見事にひっくり返って、エーテル空間が目の前に出現してくるのが分かるはずだ。そして、ここにおいて3次元球面も完成してるのが分かる。つまり、3次元球面をイメージするためには物質空間における点(観点)を球面へと開かない限り無理だということだ。
では、ここで出現してくるエーテル空間の中心点(無限遠点)というのは何なのだろう。。。
ということで、今日のヌースのゴタクはここまで。詮索好きの人はゆっくり考えてね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, シュタイナー関連 • 1 • Tags: エーテル, ユークリッド, 無限遠, 神秘学