3月 3 2011
『ヌースエヴァ』完成!!
会社で水を作った。「作った」と言っても、長年研究していたものを今回ようやく正式に製品にラインナップさせたという感じだ。それだけにこの製品には愛着がある。命名はいろいろと悩んだ末『ヌースエヴァ』にした。別にエヴァンゲリオンを意識したわけではない。水はもともと生命の起源と言われている物質だ。そこには生命を生み出した母胎のイメージがある。その意味で、ヘブライ語で生命の意味を持つ「エヴァ」という言葉が真っ先に浮かんだというわけ。語感もいいし、イメージも柔らかい。まぁ、月並みなネーミングではあるのだけど、自分としては大変、気に入っている。ロゴは某大手広告代理店でアートディレクターをやっている友人のMくんにお願いした。こちらもクールな感覚で仕上がっていて大変気に入っている。ついでにボトルもオリジナルデザインで起こしたかったのだが、あまりに経費がかかりすぎるということで断念。既成のものを使った。
さて、この『ヌースエヴァ』だが、原水にも大いにこだわりを持っている。前々から水をいずれは商品化したいと思っていたので、常日頃ミネラル水や逆浸透膜で処理した純水など、様々な水を全国各地から取り寄せてはテイスティングしてはいい素材を探していた。昨年、親しい友人から凄い水があるよと紹介され、試しに飲んでみたところ、味も、舌触りも今までのものより群を抜いて一番!!、ということで、その水で行くことに決めた。何でも聞く所によれば、この原水は古くからご神水として当地の人々に愛飲されてきた水だそうで、非常に有り難い水だということ。この有り難き水をヌーソロジー的工学を使ってより有り難き「生命の水」へと変容させる。コンセプトはずばり古代の神性と未来の神性の結合。。。ってのはまぁ大袈裟な話だが、とにかく、こうして『ヌースエヴァ』が出来上がったというわけだ。
さて、そこで「その肝心のヌーソロジー的工学とは何ぞや?」ということになるのだが、これはヌーソロジーに登場する観察子という空間概念を機械を用いて空間に再現する技術のことだ。観察子概念は高次元の空間構造から成っているので、通俗的に言えば高次元波動を発生する技術だと言えるのかもしれない。しかし、高次元波動と言ってもスピリチュアルな世界で使われているような意味不明な波動の意味ではなく、れっきとした物理学的な波動のことである(と個人的には思っている)。現在まで機械は2台作っている。「7の機械」と「8の機械」(正式名 NC-generator ver,1.0と1.1)というのがそれだ(下写真)。
「7の機械」は物理学的に言うと陽子の波動、「8の機械」は中性子の波動を再現する仕組みを持っていると考えている。と言って、これらの機械から陽子線や中性子線が飛び出して来るといったような物騒な話ではない。これらの機械はあくまでも物質の内部から陽子や中性子にアクセスし、そこにカタチの共鳴を与えることを目的にして製作した機械だ。
「7の機械」の方はすでに2004年に完成に漕ぎ着け、そこから発せられる波動が水の物性に与える変化をいろいろと見ていたが、微生物の培養実験など間接的な実験では劇的な変化が見られたことがあるものの、残念ながら、水そのものの物性としての客観的なエビデンスを数値として得ることは結局できなかった。3年前に「8の機械」が完成し、その後、機械に流す電流量や機械内部の回転比などをいろいろと変えて実験を続けた結果、最近になってようやく波動処理を加えた水とそうでないものとの間のORP(酸化還元電位)にわずかながらも優位さが認められるようになった(もちろんORPが下がったということ)。そこで、思い切って製品化に踏み切ったというわけだ。
発売前のモニターテストは概ね好評。飲んで病気が治るなんてことは言わない。飲んで心が浄化されるなんてことも言わない。ただ、普通の水とはちと感触が違う水になっていることだけは確かだ。興味がある人は『ヌースエヴァ』のサイトへどうぞ。
3月 9 2011
ヌースアトリウム報告
地元、博多で3ケ月ぶりにヌーソロジーの集まりを「ヌースアトリウム」と銘打って開いた。アトリウムというのは建築用語で空中庭園の意がある。高層ビルなどで透明なガラスのルーフを通して陽光が指し込む開かれた高所の空間のことだ(新宿にあるパークハイアットホテルのフロントみたいなところ)。そこに集った人々が思う存分自らのプラトー(高原=高次元空間)のイメージについて語り合う——そうした主旨を持って久々にヌーソロジーに関心を持つ人たちに集まってもらったわけだが、今回も大盛況。決して広いとは言えない会社のラウンジに総勢40名ほどの人が集ってくれた。いつもながら拙い話にこれだけ集まってくれてほんとうに有り難いことだ。心から感謝、である。
ヌースアトリウムは何分にもディスカッションスタイルでの進行なので、従来のレクチャーのような下準備は一切ナシのぶっつけ本番である。テーマはヌーソロジーの世界に足を踏み入れるにあたって最も基本となる「人間の外面と内面」という概念と既存の哲学との擦り合わせ。レクチャーでは構造的な側面の解説が多かったので、アトリウムではそれらの概念が含み持つ多様な意味について、2年ほど前に書いた紀要の記事『知覚正面上における本性上の差異についての一試論』をダシにいろいろな角度から話をしてみた。
ヌーソロジーの思考スタイルを一言で表現するとすれば、同一性に従属させられた差異の群れを、同一性を従属させるような差異の群れへと反転させていくことにある(このへんはドゥルーズのパクリ)。たとえば、世界には様々なものがあり、それらのものには違いがある。しかし、そういった多様なモノの群れは結局のところ時空という同一性の中に従属させられている。人間にしても同じだ。人間には人種、国籍、性格、顔かたちなど、人それぞれ違いがあるのだけど、結局のところ、それは人間という概念で一括りにされ、「人間は所詮、人間である」という同一性の中で一般化される運命にある。一般化された眼差しの中では、個々の人間は互いに交換可能、代替可能な対象としてしか扱われない。「君の代わりはいくらでもいる。嫌なら辞めてもらってもいいんだぞ」という上梓の脅し文句も、「あいつだけが女じゃない、女なんてこの世に掃いて捨てるほどいる」という振られ男の愚痴も、みなこうした差異を従属させた同一性を前提として吐かれている台詞なわけだ。ほんとうは君の代わり何てどこにもいないし、あいつだけが君にとっては女であったはずなのに………ね。
同一性に従属するこのような差異の中で最大のものを僕らは対立と呼ぶ。お互いに違いがありすぎて真っ向から対峙してしまうこと。それが対立だ。大と小、強と弱、善と悪、対立の場では片方がもう片方を全面否定することになるが、対立が同一性に従属しているのであれば、ここには「皆が同じである」という前提が実は対立を生んでいるという皮肉な構図があることになる。もしくは皆が同じでなければならないという暗黙の要請が対立を浮き立たせ逆に皆を不幸にしているとも言えようか。。人間は神のもとに平等だ。僕らは愛によって繋がりをもたなければならない。天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず。。こうした言説は一見、至極まっとうに聞こえるけれども、実際には憎しみを生む源泉になっている可能性もあるということだ。差異の思考とはそうした同一性を基盤にした思考が生み出す概念とは全く違うものである。ある意味、人間を「みんな同じ」と言い放ってしまうこの暴力的な仮説から人間を解放させる思考のことを言う。
では、そのような「差異」とは一体どのような差異なのだろう。。この差異こそが唯一意識から同一性に縛られた思考を解放し、それこそ、今度は意識の中に同一性を従属させる思考を作り出すことができるのだが。。ドゥルーズはこの差異をベルクソン哲学を通して即自的差異の中に見た。即自的差異とは簡単に言えば「それ自身における差異」のことである。普通、差異というとさっきも言ったように二つのものの間の差異として僕らは考える。リンゴとミカンの差異。オレとオマエの差異。etc……。だけど、ドゥルーズ-ベルクソンのいう差異とは、目の前にあるものがたとえ一つであっても、それ自身にそれ自身とは違うものが存在していると考えるのだ。それが即自的差異というヤツである。はて、それって一体何?
目の前にリンゴがある。そこには同時にリンゴではないものが重なっている。それさえ見つけられれば差異の思考に一歩足を踏み入れたことになる。ベルクソンに言わせれば、それはイマージュとしてのリンゴである。イマージュとしてのリンゴという表現が分かりにくければ「持続を内包したリンゴ」と言い換えてもいい。目の前のリンゴは物質の範疇に含まれるものだが、持続を内包したリンゴはもはや物質とは言い難い。なせなら、持続を内包するということはリンゴであり続けているということであり、これはリンゴの記憶に等しいからだ。だから「目の前にリンゴがある」という客体認識は記憶がなければ成り立たないことになる。一秒前にもあった、5秒前にもあった。そして今もあり続けている。だから、今、目の前にリンゴがある——こういう考え方をしたときのリンゴがイマージュとしてのリンゴである。だから、イマージュとしてのリンゴはただの物質ではない。そこには精神が関わっている。精神が関わっているからには、それはもはや客体ではなく主体だ(もちろん今まで僕らが主体と呼んでいたものとは大きく趣を変えてはいるが)——要は、このように主体として解釈し直されたリンゴ。これがリンゴ自身における即時的差異というものだと考えていい。つまり、目の前のリンゴには客体としてのリンゴと主体としてのリンゴが重なって存在させられており、そこにはほらこんな差異があるだろ!!ということなのだ。
では、その主体としてのリンゴ、イマージュとしてのリンゴはどこにあるのか。ベルクソンが下す結論は明解である。もちろん知覚そのものの中にある(「知覚するものは知覚されるものの場所にある」とベルクソンはいう)。。つまり、知覚は知覚されるものの記憶を自らの中に内包して、今、そこに存在しているのである。となれば僕らが世界と呼んでいたものも一転してイマージュの総体となり、それはわたしの精神以外のなにものでもないじゃないか、ということになる。こうして世界という同一性はわたしという差異に従属するものへと反転させられるのである(これがヌーソロジーのいう〈位置の交換〉の意味だね)。
このことは「見るものとは見られるもののことである」と言ったクリシュナムルティーや「主体は世界の外部にいる」と言ったヴィトゲンシュタインの名を挙げるまでもなく、生きのいい哲学者であればとうに言ってきたことだし、今更、鬼の首を取ったように言うことでもない。しかし、この差異を人間の思考が空間的に識別化できるようになり、そこに確固とした幾何的な構造を見て取れるようになったとしたらどうだろう。さらには、そこに開示されてくる差異の幾何的な構造が現代物理学が素粒子と呼ぶものとダイレクトに連結していることが多くの人に理解され出したとしたら。。おそらく、人間の居住空間は時空から一気にミクロ空間へと大移動を開始することになりはしまいか。。差異の思考においては差異が同一性を内属させているのだから、差異が素粒子として見え出した暁には、同一性を保証していた時空は素粒子の中に内属したものとして見えてくることになる——ヌーソロジーにおける人間の外面の発見とはそうした即自的差異を認識に空間として顕在化させることをいうのだが、ここで「外面」といったような幾何学的名称を用いているのは、ヌーソロジーがこのような即時的差異に始まる差異の階層を単に哲学的な観念としてだけではなく、空間構造として対象化し、それを十全な観念としてダイレクトに意識に浮上させたいがためである。。。。
まぁ、ざっとこういった内容のことをくっちゃべっていたのだが、以前よりは、皆に理解してもらえたような気がするなぁ。次回もまた3ケ月後に開催しますね。今回参加された方も、まだ一度も参加されたことがない方も、現代哲学と現代物理学の融合に興味津々の方は是非、遊びに来て下さいね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 02_イベント・レクチャー • 3 • Tags: イマージュ, ドゥルーズ, ベルクソン, 位置の交換, 内面と外面, 素粒子