1月 21 2014
物となって見、物となって行ふ
「物となって見、物となって行ふ」——西田幾多郎の言葉。これは心で見て、心で行うという意味に同じだろうと思う。西田のいう「物」とは、物の中に潜む物そのものの生成力を意味している。僕的には、奥行きの中に持続を感じ取り、その持続の中に自らのいのちを感じることによって、初めて物となって物を見ることができるようになるのだ、と感じている。
西田はベルクソンの純粋持続を連鎖的創造とも呼んでいる。そして、精神の非常に集中したところに創造がある、とも。この「集中」というのは、ベルクソンが「物質とは弛緩であり、精神とは収縮・緊張である」と言っているところから来ている。僕的に言わせてもらうなら、幅で見ているものを奥行きへと移設せよ!!という感じだろうか。幅は奥行き側に回ると一瞬で縮む。
こうした一瞬で縮んでしまう奥行きが、僕には「虚軸」に見えて仕方ないのである。認識視座の移行が虚軸として表現形式を持つということだ。奥行きから一度、時間と空間といったような実数化されたもの外し、純粋にそこを差異化させるということ。ベルクソンは持続を形式化することはなかった。ベルクソンの時代にはまだ道具立てが揃っていなかったのだろう。
ベルクソンの哲学が神秘主義的な生気論として片付けられてしまったのも、持続世界の形式化が不十分だったからだと言える。ベルクソンを現代に復活させたドゥルーズは、そこに「微分化」の概念を持ち込んではいるが、弛緩に対する緊張・収縮がいかにして微分概念と接続するのかがまだまだ曖昧で、何を言っているのかが分かりにくい。
というより、直裁的なイメージに乏しい。たから、ガタリ絡みの「リゾーム」や「器官なき身体」「ノマド」といったような語的センスだけのあまり中身のない概念だけが一人歩きしている(僕はポストモダンの思想があまり好きではないのです)。このままではドゥルーズ哲学も単なるディレッタンティズムの中に埋もれてしまいそうだ。
奥行きから既成の空間も時間も抜き去り、そこに持続の位置を虚軸として仮定すること。そして、現代物理学が見出した内部空間の構造に準拠しながら、内在野の構造を実験的に重ね合わせてみること。この作業は「存在の外部」をさぐるにあたって、極めて意義ある作業ではないかと感じている。
これは、冒頭の西田の「物となって見、物となって行う」に倣って言うならば、「物となって考える」ということになろう。それは言い換えれば、心による心のための思考でもある。心が心を思考するとき、僕は初めて創造が始まると思っている。
2月 3 2014
檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』を読む
檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』を読む。ベルクソン-ドゥルーズと西田哲学の擦り合わせをとても分かりやすく解説している。西田の著書自体を読んでいなので何とも言えないが、ベルクソン-ドゥルーズが深く踏み込んでいない永遠性を通した他者と死に関する捉え方がOCOT情報に極めて近い。
2014年は死の観念を変革していくことに力を注いで行こうと思う。死とは西田のいう「永遠の今」とほとんど大差ないもののように思える。流れ行く時間が生の母胎であるとするなら、死の母胎とは流れることのない時間であり、それは生と密着して今・ここに同時にある。
死を隠蔽するのでもなく、超越化させるのでもなく、生の中に内在するものとして捉えること。そして、その生の内在の方へと眼差しを向けること。他者との出会いが可能となる場所は、まさしく、そうした生に内在する死の場所においてである。
生の場所を直線的時間と見なせば、死の場所とはこうした直線が円環化するところに現れる。奥行きとはこの円環の径を為す物である。西田における純粋経験の場所としての奥行き。生に内在する死は無限の過去から未来という直線上で起こることのすべてを記憶として抱く無底の器のようなものだろう。
「真に生きる」とはこの無底に触れて生きることであり、生命の力もそこから発している。物理学的にはこの円は時間直線上を転がっていく円として表現されるが(ユニタリー発展)、むしろ展開されているのは直線的時間の方である。
この転倒を是正するところに「生に内在する死」が、むしろ真の生として浮上してくるのだろうと思う。「奥行きに主体を見ると」いうことは西田のいう「純粋経験」に通じている。主客未分の連続性としての死の生命がまずあるのだ。そこから、生命は「自己限定」を為すために接線としての直線を繰り出す。
そして、その接点において純粋経験は自己限定を「反省」する。この仕組みを達観することが西田のいう「絶対無の自覚」ということになるのだろう。
檜垣の分析通り、ここにはドゥルーズの〈差異化〉と〈差異化の差異化〉という二段構えの差異化の循環性が息づいている。この循環性は物理学における量子化と第二量子化の手続きと同型対応するものだ。両者を繋ぐメタ知覚を概念として創造すること。そうすれば、世界から「死」という観念は消える。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: ドゥルーズ, ベルクソン, 檜垣立哉, 西田幾多郎