4月 9 2014
モナドとコーラ
「一つの襞が生命体を貫通するのだが、それは生の形而上学的原理としてのモナドの絶対的内部性と、現象の物理学的法則としての、物質の無限な外部性を分配するためである。二つの無限の集合があり、一方は他方と交わるところがない」—『襞』ドゥルーズ p.51
モナドの絶対的内部性。この内部性の中でモナドがネットワーク化されていく条件が共可能性というものである。一つになれる「可能性」をモナド同士が交換し合うこと。決して一つになるのではなく、その「可能性」を共有するというところがミソだ。意識はこの共可能性に裏打ちされて発生している。
共可能性というからには不共可能性も同時に含む訳であって、絶対的内部性における創造の弁証法はこの二つの可能性の間を巡る弁証法によって展開しているという感じ。共可能性は円環的なもの(巻き込み)として、不共可能性は直線的なもの(繰り広げ)として。連接的か排他的かもここからくる。
「モナドの絶対的内部性」と「物質の無限なき外部性」は交わることがないとドゥルーズは書いているが、存在が共可能性と不共可能性の絶えることのない弁証法的発展性を持つのであれば、両者は必ず接点を持ち、絶対的内部性を拡張していく。それがOCOT情報のいう「交替化」という出来事。
で、当然、その接点の浮上とは何か?という話になるのだけど、それが量子力学だと考えている。包まれつつ包むものとして生じている時空と、包みつつ包まれるものとして生じている量子空間。内在平面は両者の間をまつっていく無限数の反復運動で貫かれているし、また今もなお、貫き続けている。
幅から奥行きへと空間の性を転換すること。奥行きとは女である。
女の性としての空間が浮上してくると、幾何学は女の幾何学へと変貌する。つまり存在の子宮として見えてくるということだ。この「存在の子宮」のことをプラトンは「コーラ(chora)」と呼んだ。プラトンによればコーラは以下のような特徴を持つ。
1、生成物を入れる容器
2、無時間性
3、叡智的なものでも感性的なものでもない
4、火、地、風、水の四元素が存在するところ
5、五つの正多面体(プラトン立体)と関係を持つ
6、モノを占めている空間のことである(アリストテレス)
イデア=父、人間=子とするならば、このコーラはさしずめ母に対応するものと考えられる。哲学はこのコーラの前で足踏みしている。あのデリダさえも「われわれはまだ、受け取ること、この受容体が持つ〈受け取ること〉というのが何を言っているのかを、考えてはいない」と言っている。
意識に生み出されている様々な表象や言語、それらをバラバラに飛散させることなく、カテゴリー化させ、グループ化させて秩序立てると同時に、また解体し、接合させ、流動、循環、反復を繰り返し行なっていくような、生きた意識の原器の蠕動がある。その原器こそがコーラと呼んでいいものだろう。
この原器の中に向けてわたしたちはロゴス(種子)を吹き込まなくてはならない。宇宙的生殖とはそういうものだ。
5月 7 2014
新しきロゴスのイマージュ
思考(ロゴス)が存在を超え出て新しい無限を切り開いていくとき、思考はそこで初めて魂(プシュケー)と出会うことになる。そして思考は、そこで初めてこの女なるものとの間にエロス的関係を持てるようになり、ヌースへと変身を果たす。これが古代のグノーシス者の一部が感じ取っていたロゴス(思考=種子)とプシュケー(魂=子宮)、そしてヌース(能動知性=胎児)の関係性である。
ここで展開しているロゴスのイメージは現代哲学を軽く凌駕している。このロゴスはもちろんキリスト教が言うような「受肉したロゴス」のことではない。あえて言うならば、イエスと同時代にアレキサンドリアにいたフィロンによる「切断者としてのロゴス」のイメージに近い。
「切断者としてのロゴス」というのは、言うなれば、ロゴスに抗って運動するロゴスのことである。思考に抗って思考自体を切断する思考……とでも言おうか。だから、この切断によって起こる分離はハイデガーの言う存在者と存在との差異に似てなくもないが、もっとデカイ。存在者を含んだ存在と、それを超え出ていくものとの差異ということにでもなろうか。
永遠の時間を一つの存在だとするならば、この「切断者としてのロゴス」とは、その永遠性さえをも超えて行こうとする一つの無限による無限運動と呼ぶことができる。要は、存在を丸ごと差異化させるような運動だ。そして、そこに存在の刷新を呼び込むこと。「創造とは分離から始まる」のである。
こうした思考には一者は存在しない。というのも、普通、一者とは分離ではなく統合を行うものと考えられているからだ。だから、フィロンは「1」ではなく、「2」を始まりの数にした。
さて、わたしたちの今現在の世界を覗いてみよう。「2」は二元性という言葉に代表されるように対立の数と見なされている。善と悪、光と影、わたしとあなた、男と女etc。どこを覗いてもそこには「二なるもの」における対立の乱交状態があるかのように囁かれ、「2」は常に悪者として糾弾されているかのようだ。
しかし、わたしたちの世界にほんとうに「二なるもの」が生まれているのだろうか? それは実のところ「一なるもの」が自らの支配を隠蔽するために流したデマとも言えるのではないか。
古代のプラトン主義者たちが考えたように、存在がもし一者であるのならば、その一者は「1」の観念として当然、個物の中にも影を落としている。一つのモノであれ、一匹の動物であれ、一人の人間であれだ。つまり、一人の人間にも厳然と一者が宿っているのである。それはわたしたちが「自我」と呼んでいるものにほかならない。
そして、知っての通り、この自我はどうあがいても自分の世界の中でしか生きられない。たとえわたしたちが万物の中にあらゆる二元性がうごめいているのを目撃したとしても、この2元性はこの閉じた一元性、つまり自我の中でうごめいている「2」にすぎず、それはつまり「1」の中の「2」、同一性に従属した差異の範疇でしかないのだ。
ここで「切断者としてのロゴス」が意図することが明確になってこよう。つまり、存在=一者に憑依された存在者としての人間=自我が、存在を乗り越えていくときに見出す超-存在、つまり、存在を切断する新たなる存在の芽、それが切断者としてのロゴスのことなのだ。となれば、存在の連続性を担保しているのは一者としての神などではなく、この二なるものとしての天使性と言ったほうがいい。
であるのならば、わたしたちが自然の中に見る生命の連続性の中にも、この無窮の無限運動の切り開きをイメージしなくてはならない。一つの種子から一つの樹木が生まれることも、一匹の動物から一匹の動物が生まれることも、そして一人の人間から一人の人間が生まれることも、一重に存在を超え出ていこうとする「一なるもの」からの切断力の現れでもあるのだ。
ドゥルーズを持ち出すまでもなく、おそらく、今、世界に必要なのは、それそのものにおける差異である。「1」という存在に閉じ込められた世界に「2」を到来させなくてはならない。そして、そのときに初めて、わたしはほんとうのわたしとなってとほんとうのあなたを世界の中に迎え入れることができるのだ。
そのとき、ロゴスとしての男ありき、プシュケーとしての女ありき、そして新しい生命としてのヌースありき、と考えた古代のグノーシス者たちの存在世界に対するイメージをわたしたちは真に理解するに違いない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: グノーシス, ドゥルーズ, ハイデガー, プラトン, ロゴス