4月 25 2013
持続から襞へ—ドゥルーズの空間論の行方
年に一回、大学の方に提出することが義務づけられている紀要用の小論。去年からドゥルーズをテーマに書いている。今年はドゥルーズの空間論についてごく簡単にまとめた。ヌーソロジーが背景にあると、バラバラに分散した様々な哲学者の思考に共通する線が見えて、結構まとめやすい。ここで紹介するドゥルーズの空間論を、〈奥行き〉と〈幅〉という鍵概念を通して現代物理学が展開している量子論的空間(複素空間のシステム)と結びつけその前景化をはかることがヌーソロジーの目指すところである。さて、現行の素っ気ない4次元時空という概念に対して、わたしたちが真に生きる空間をどこまでふくよかにイメージしていくことができるか。。これからです。
持続から襞へ——ドゥルーズの空間論の行方
半田広宣
From Duration to Le Pli——The Future of Deleuze’s theory of space
Kohsen Handa
1.はじめに
ドゥルーズがその中期の主著『差異と反復』(1968年)において示した時間論は周知の通りドゥルーズ存在論の骨格的基盤をなすものである。この時間論はわれわれが経験する時間がどのような条件で意識上に成り立っているのか、その超越論的総合の在り方をベルクソンの哲学やフロイト、メラニー・クラインらの精神分析的知見、さらにはニーチェの永遠回帰の思想を織り交ぜながら、存在論的無意識の深い射程の中で認められたものであり、哲学史上、数ある時間論の中でも最も重厚かつ緻密な考察で満たされている。しかしその一方で、空間論の方はどうかというと、少なくとも『差異と反復』を見る限りにおいては時間論のような体系づけられた展開は見られない。実際、『結論』を含めて全体で6章からなるそのテキストの構成において、第2章の全体がほぼ時間論の詳説に割かれているのに対して、空間に関するまとまった論述は第4章のごく一部分で取り上げられるのみである。もちろん、これはドゥルーズが「空間によってではなく、むしろ時間によって問題を提起し、解決する」(1)というベルクソン哲学の規則を忠実に遵守しているからだとも言えるが、ベルクソンのいう時間は純粋持続のことであるから、そこではもはや時間と空間の区別がつきにくいものになるという事情もあるだろう。結果的にドゥルーズが空間論について細密な考察を行うのはライプニッツ論として著した『襞』(1988年)まで待たねばならないが、そこではベルクソン哲学が示した精神の弛緩と緊張のあらゆる段階がライプニッツのモナドロジーを経由してドゥルーズ独自の空間的な存在様式で表現され、「襞」の空間論として展開されていく。この小論ではドゥルーズがベルクソンから引き継いだ持続の観念がどのようにしてこの「襞」の空間論へと発展していったのか、その道筋を簡単に辿ってみたい。
2.幅と奥行き
ベルクソン哲学を踏襲したドゥルーズにとって「経験が与えるものは、つねに空間と持続が混合したもの」(2)でしかない。本来、外在性の形態としての空間は継起のない外在性を示しているにすぎず、それは〈空間の空虚な形式〉と呼んでよいものである。そのような空間は量的な同質性しか示すことはなく、長さを指し示す物差し同様、段階的な差異しか含まない。時間にしても同じである。外在性の形態としての時間は瞬間の継起でしかないのであるから、それは生まれてはすぐに壊れ去ってゆくものであり、そこに持続がなければ経過する時間という認識自体が生まれることはないだろう。「物質とは記憶である」のみにとどまらず、時空もまた記憶に裏打ちされて初めて意味を持つ存在となるのである。となれば、われわれが時間に直線という空間的表象を浸透させてしまっているのと同様、空間の延長性にもつねに持続が混合させられていると言えよう。混合したものを慎重に区別すること。これもまたベルクソン哲学の規則であった。果たして、ベルクソンが指摘したこのような空間の延長性と持続の混合に対してドゥルーズはどのような区別を持って臨んだのだろうか。
ドゥルーズはそのためにまず空間における奥行きを「深さ」と呼んで、その幅(横や縦)と区別する。本来、持続として作用している時間を空間化させると同時に、空間の延長性に対して時間を浸透させているものの原因をこの〈奥行き=深さ〉の幅化という一般化に見るのである。
「深さが、延長量として捉えられるや、それは、生み出された延長の一部をなし、もはや、他の二つの延長量(縦と横)に対するおのれ自身の異質性を即自的に含むということをやめてしまう」(3)
なぜ〈深さ=奥行き〉が幅と異質なのかと言えば、奥行きには必然的に時間の経過が内在させられており、それは「もっとも遠い過去を、現在と共存している過去として証示する」(4)からにほかならない。奥行きにおいての〈遠さ-近さ〉という距離概念が時間の経過と同じ意味を持つことは容易に理解できるだろう。特殊相対性理論が明らかにした時空概念では百光年先の彼方にある世界は百年前の世界と同じ意味を持つ。普通、われわれは奥行きを幅へと一般化し、時空における延長量として捉えてしまいがちだが、実際の知覚においてはその延長性は一点で同一視されており、いわば「事物なき媒体の厚み」(5)としてしか経験されることはない。この単純な経験的事実は時間についての直線的な把握をたちどころに無効にする。なぜなら、奥行きにおけるこの一点同一視はもはや時空上の延長性の点的な射影といったようなものではなく、意識において時間が把持されている状態そのものの空間的様態として考えられるからである。つまり、奥行きの中には「生ける現在」を構成するための時間の縮約=過去全体が息づいていると考えられるのである。このような奥行きはもはや延長でもないし、現れては次々と消えていく継起的な時間でもないことがすぐに了解されるだろう。それはまさに現在と過去の同時性を達成している純粋持続が息づく場所のようなものへと変貌している。われわれが世界と関わりを持つのは必ずこの〈奥行き=深さ〉を通じてであり、それは「その本質からして延長の知覚に巻き込まれて」(6)おり、「知覚不可能なものでありながら、知覚されることしか可能でないもの」(7)でもあり、他の諸次元を包含する次元として空間ならび時間の延長性の母胎となるものとなる。こうしてドゥルーズにとっては〈深さ=奥行き〉は一方で一般性でもあり、一方では特異性でもあるような「空間の純粋な錯綜体」(8)と化す。表象はこの純粋な錯綜体が持った二つの性格によって「われわれを一気に物質の中に置く知覚の方向」と「われわれを一気に精神の中に置く記憶の方向」(9)の二つの純粋な現存へと振り分けられているのである。言うまでもなく、前者は幅によって一般化された奥行きの中に見られる表象であり、後者は奥行き本来の〈深さ〉の中に見られる表象である。
3.物質の即自へ
このように奥行きと幅との間に絶対的差異を見て取るドゥルーズの空間に対する思考は現象学を理性から知覚の場へと遷移させようと試みたメルロ=ポンティの思考を受け継いでいるとも言える。メルロ=ポンティは一生涯にわたってこの「深さ」としての奥行きのなかに実存を見る思考を継続しつづけ、その晩年に「見る者」である主体もまた奥行きの中に含まれているという結論にたどり着いた。
「見える現在はわたしの視界をさえぎるのであり、言いかえれば、時間と空間が彼方に拡がっていると同時に、それらは見える現在の背後に、奥の方にひそかに存在しているのだ。そんなわけで、見えるものが私を満たし、わたしを占有しうるのは、それを見ている私が無の底からそれを見るのではなく、見えるもののただなかから見ているからであり、見る者としての私もまた見えるものだからほかならない。」(10)
メルロ=ポンティがこのように〈奥行き=深さ〉のなかに主体の可能性を根付かせようとした理由がどこにあったのかと言えば、それはフッサール現象学のような対自の哲学、つまり「意識はつねになにものかについての意識である」とあからさまに言明するような表象の哲学、意識の哲学からの脱却を意図してのことである。ドゥルーズもまた『ベルクソンの哲学』を著した時点ですでに「空間そのものが物のなかに基礎づけられ、物と持続との関係のなかに基礎づけられ、空間もまた絶対に帰属し、その《純粋性》をもたなくてはならない」(11)と考え、主体の同一性を保持する現象学のような哲学の乗り越えを諮っている。奥行きがひとたび〈深さ〉として純粋持続との結合を果たせば、ドゥルーズの思考の文脈から言えば、それは「感性作用を引き起こし、感性自身の限界を定めている」強度の場の出現ということになり、もはや外延量ではなく即自としての内包量へと変質する。こうしてドゥルーズは「深さと強度は存在においては同じものである」(12)と断言し、〈奥行き=深さ〉を潜在性としての差異が息づく内在平面への侵入口として思考するのである。〈奥行き=深さ〉がもし内包量であるとすれば、純粋持続としての主体(それはもはや主体とは呼べないかもしれないが)は物質の内部に入り込んでいると言わねばならない。つまり、ベルクソンが言うように「われわれが対象を知覚するのはわれわれのうちにおいてではなく、対象のうちにおいて」(13)なのである。しかし、〈奥行き=深さ〉のなかに純粋持続を見とったとしても、果たしてそれがいかにして「物のなかに基礎づけられる」というのだろうか。ドゥルーズはこの基礎づけにライプニッツの哲学を接続させるのである。
4.襞化するモナド
前述したように〈奥行き=深さ〉は知覚的事実としてつねに一点で同一視されている。このとき奥行きを構成している線は外延性の中で見れば、物質としての身体の位置と宇宙の果てにある点を結ぶほぼ無限の長さを持つ線としてイメージされることになろう。しかし身体は物質の質点であると同時に物質に対する「観点」でもあることを忘れてはならない。ドゥルーズは『襞』の中でライプニッツの「モナド」を念頭において「観点を占めるもの、観点において射影されるものとは形而上学的な点、つまり魂、あるいは主体である」(14)と言う。ライプニッツにとって「モナド」とはこの形而上学的点としての「単純実体」のことであり、それは「そこ」へと世界が集中していく中心のことを意味している。「ちょうど、中心つまり点はまったく単純なのであるけれども、そこへと集中する線によって作り出される角度は無数にあるようなものである」(15)とライプニッツがいうように、観点は外延性としての奥行きを自らの「点」のなかに取りまとめ、その中心化の位置を保持している。奥行きのこの中心への集中によって身体は単に空間の一点において存在するのではなく、その集中点が上位の点となって「多を含みそれを表現している一、すなわち単純なる実体」としてのモナドとなるのである。ライプニッツに拠れば、モナドは決して世界の多を一の中に表象する機能を持つだけではなく、同時に、このモナドがモナドの複合体として多の中の一の中へと含み込まれる性質を持っている。つまり「一の中の多」は「多の中の一」へと折り返され、それが再び「一の中の多」への自己表出(exprimer)を果たし、そこから再度、表象化(représenter)の次元へと至るのである。こうしたモナドの中心化から脱中心化への折り返しの仕組みをドゥルーズは『差異と反復』の中で〈巻き込み/implication〉と〈繰り広げ/explication〉と呼び、これら両者を潜在性が持つ二つの基本的な存在様式と見なした。これは「持続は一か多か、多であればそれはどのようにしてか」(16)というベルクソンが提示した問題に対するドゥルーズなりの回答でもあるだろう。世界の多を表象した観点としてのモナドは〈奥行き=深さ〉によって微視的領域へと巻き込まれ、そこで脱中心化を果たし他のモナドとの複合的関係に入る(この複合関係を裏支えするものがドゥルーズのいう「構造としての他者」である)。そこからまた幅の方向へと宇宙の隅々にわたって巨視的領域へと繰り広げられることによって、今度は世界を表出する側へとまわる。そしてそこに浮上してくる無数の表象をまた観点としてのモナドが回収し、〈奥行き=深さ〉においてまた巻き込んでいく……。このように、モナド化の原理は〈巻き込み-繰り広げ〉の運動を〈奥行き=深さ〉という差異化の軸と〈幅〉という同一性の軸を通して多重に反復し地層化させていく仕組みを持つことになる。ここにいたってドゥルーズの多様体の哲学、いわゆる「襞」の空間論の基礎的なイマージュが確立されることになるのである。
5.襞の行方
では、こうしてベルクソンの持続論、メルロポンティの奥行き論、そしてライプニッツのモナド論を媒介にして精製されたドゥルーズによる『襞』の理念論は一体どこに向かおうとしているのだろうか。一般に言われているように、そこにドゥルーズの初期研究の対象であったスピノザの「実体における一義性」やニーチェの「永遠回帰」を見ることは確かに容易い。しかし、この問題については、中期の『差異と反復』と後期の『襞』の間にドゥルーズ自身のある種の〈転回〉が見られ、そこに明確な方向性を見て取ることは難しい。たとえば、『差異と反復』で示された強度的なものにおける〈巻き込み-繰り広げ〉の運動は〈差異化=微分化〉〈異化=分化〉を司る意味で差異のシステムの中核を意味するものでもあり、このシステムは同時に現働的な自我の背後で潜在的に働く個体化のシステムとしても解釈されていた。しかし、ガタリとの共同戦線を組んだ『アンチオイディプス』(1972年)や『千のプラトー』(1980年)では、このような個体化を導く発生の議論はほとんど見られなくなる。そこで議論の中心となってくるのは機械状無意識と化して変動しゆく世界-存在史論を軸とした精神分析批判や、言論的-貨幣論的、社会学的-政治学的な議論を通した資本主義批判である。ドゥルーズのこうした実践的思想への転向は活動家でもあるガタリとの共同を考えれば当然のことと言えるが、それによってドゥルーズがベルクソンから継承した「人間的なものと超人間的なものにわれわれを開くこと、人間的条件を超越すること」(17)という哲学が本来持った意味の射程が、極めて見えにくくなっているのもまた事実である。ドゥルーズは遺稿となった『現働的なものと潜在的なもの』(1996年)という小論において、潜在的なものが向かうべき方向性には「潜在的なものが現動化されるような巨大回路」と「潜在的なものが現動的なものと結晶化するような最小回路」(18)という二つの回路が存在すると書き遺している。果たして、このときドゥルーズは自らが描き出したこの存在論無意識の海図の中で自身の思考の現在をどのポジションに置いて見ていたのだろうか。ひょっとすると、この両回路のつなぎ目の捻れに生じた大渦の中に投げ込まれ、自らが現在地不明となってしまったドゥルーズがいるのではなかろうか。もしそうなら、そこで漂流し続けているドゥルーズを哲学の未来が救助することは果たして可能だろうか。おそらく、われわれにはまだその位置さえつかめていないように思える。
〈参考文献〉
(1) ジル・ドゥルーズ(1989)『ベルクソンの哲学』法政大学出版局, 24
(2) ジル・ドゥルーズ(1989)『ベルクソンの哲学』法政大学出版局, 33
(3) ジル・ドゥルーズ(2007)『差異と反復・下』河出文庫, 164
(4) ジル・ドゥルーズ(2007)『差異と反復・下』河出文庫, 165
(5) M・メルロ=ポンティ(2009)『知覚の現象学・2』みすず書房, 93
(6) ジル・ドゥルーズ(2007)『差異と反復・下』河出文庫, 166
(7) ジル・ドゥルーズ(2007)『差異と反復・下』河出文庫, 166
(8) ジル・ドゥルーズ(2007)『差異と反復・下』河出文庫, 163
(9) ジル・ドゥルーズ(1989)『ベルクソンの哲学』法政大学出版局, 18
(10) M・メルロ=ポンティ(1989)『見えるものと見えないもの』みすず書房, 158
(11) ジル・ドゥルーズ (1989)『ベルクソンの哲学』法政大学出版局, 47
(12) ジル・ドゥルーズ(2007)『差異と反復・下』河出文庫, 170
(13) アンリ・ベルクソン(2001)『思考と運動・上』第三文明社, 102
(14) ジル・ドゥルーズ(1989)『襞』河出書房新社, 42
(15) 池田善昭(1999)『「モナドロジー」を読む』世界思想社, 29
(16) ジル・ドゥルーズ (1989)『ベルクソンの哲学』法政大学出版局, 82
(17) ジル・ドゥルーズ (1989)『ベルクソンの哲学』法政大学出版局, 20
(18) ジル・ドゥルーズ / クレール・パルネ(2008)『対話』河出書房新社, 234〜235
5月 1 2013
願いとして叶わざるはなし
一昨日の夕方、父が入院している病院から突然、連絡が入り危篤状態だと告げ知らされた。即座に病院に急行したが、駆けつけたときはすでに自力で呼吸をしておらず臨終寸前だった。心停止はそれからわずか5分後。院長先生が形式的に心臓マッサージを施してくれたが、もう蘇生は望むべくもない。午後7時13分。父、半田一夫、他界。93年間の長い人生にその幕を閉じた。
父との思い出はたくさんある。嬉しい思い出、悲しい思い出、ときに憎々しい思い出。しかし、今となって獏と蘇る父の姿は、ただただ「信念の人」とも呼べるような、そのイメージだけである。父の宗教観や思想態度がいかなるものであれ、自らの信条を貫こうとするその言動や姿勢にはほんとに凄まじいものがあった。わたしも今年で56歳。今まで他ジャンルにわたりたくさんの人々と出会ってきたが、それでも、父ほど信念の強度を感じさせる人物はいなかったように思う。漫画でいうならば、ちょうど『巨人の星』に登場していた星一徹のような人物だったのである。
本日、告別式を執り行い、喪主として挨拶をした後、10年ほど前の父とのとあるエピソードを読み上げた。読んでいる最中、当時の記憶が信じられないくらい鮮明に瞼に蘇ってきて、はからずも涙が溢れてきて止まらなくなってしまった。喪主としては失格である。このエピソードは10年前に当時のヌースアカデメイアのサイト上で公開したものだが、亡き父への弔いの意を込めて、再度、ここにご紹介したい。
●願いとして叶わざるはなし
2004年の7月17~18日の二日間、83才になる父の旅に付き人として同行した。父はS学会の50年来の熱心な信徒である。若い頃は教団の幹部を歴任し、教学部では教授の資格を持つ理論派の猛者でもあった。70才を過ぎてからは一線を退き、末端の一会員として活動していた。そんな父の長年の夢が、日蓮流罪の地、佐渡ケ島訪問であった。常々、死ぬまでに一度は佐渡の地を踏んでみたいと語っていた父だが、日に日に衰えて行く体力を案じて、ついに、この夏の佐渡行きを決心したのである。
佐渡に着いて、まっ先に向かったのは、S学会の佐渡会館である。わたしは父が会館側に何の連絡も入れていないことを懸念していた。突然の来訪者に果たして親切に応対してくれるものかどうか不安だったのである。出発前に、電話だけでも入れておくように何度も頼んだのだが、父は行けばなんとかなるとたかを括っていたようだ。悪い予感は的中するものだ。会館には二人の女性職員が応対に出てくれたが、二人とも大事な昼休みを邪魔されて迷惑しているようだった。父は執拗に佐渡幽閉中の日蓮の足跡に詳しい人物はいないものか尋ねるが、そっけない返事しか返ってこない。そうこうしているうちに、業を煮やした父が突然、キレた。
「わたしを誰だと思っとるのかね。幹部じゃないと話にならん。責任者を呼びなさい!!」二人の職員は露骨に嫌な顔して、あたり一面が一気に険悪な雰囲気に包まれた。致し方ない。わたしの出番だ。父と職員のやりとりの中に割って入り、事前の連絡を入れなかったことを詫び、何とか父を言い聞かせて会館を後にした。父が何と言おうとダメなものはダメなのだ。
自分が抱いていた佐渡の学会員のイメージと現実のそれには天地の開きがあったのだろう。父は憤慨しているというよりは、かなりのショックを受けているようだった。「佐渡の学会員がなぜ日蓮大聖人を大事に思っておらんのか。残念でたまらん。」父は悲し気に言った。まさに、父の魂の行脚は最悪のスタートとなった。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。すぐに天使役が現れてくれた。タクシーの運転手である。もちろん、彼は学会員ではなかったが、話をしてみると日蓮の足跡に思いのほか詳しかった。日蓮の佐渡の幽閉は文永八年~十一年(1271~1274)の四年間にわたり、そのうち二年は一の谷(いちのせき)に蟄居し、「開目抄」と「勧心本尊抄」をしたためたという。その場所には現在、妙宣寺という寺が立てられている。その隣には実相寺という寺があり、その傍にある「三光の杉」と名付けられた巨木の前で、日蓮は毎朝、鎌倉へ戻ることを祈念したということだった。しかし、彼が紹介してくれた日蓮に所縁のあるこれらの寺院は、父の仇敵ともいっていい身延派であり、宗門上の対立から、父は寺には決して足を踏み入れまいと固く心に誓っていたので、とりあえずは、その両寺の周辺を散策してみようということになった。
まずは実相寺である。ここには境内の外に日蓮の銅像があった。境内に入らなければ何の問題もない。父はまっ先に銅像へと向かった。銅像の前まで辿り着くやいなや、おもむろに、ふところから数珠を取り出し、数百米四方に響き渡るのではないかと思われる激声で、五字七字の題目を朗唱し始めた。魂というか、気合いのこもった音声が周囲の雑木林を震わせる。父とは過去、中国やグァムなどを共に旅行した経験があるが、ホテルの部屋であれ何であれ、一目をはばからず「南無妙法蓮華経」の題目三唱を行い、同行者にいつも気恥ずかしい思いをさせていた。しかし、この日ばかりは、父の声に羞恥心を感じることはなかった。わたしも、後方で、そっと合掌した。全精力を込めた唱題を終えて、父の気分も幾分か晴れたようだ。次に隣の妙宣寺へと向かった。三光の杉の前まで来ると、しばらく黙祷を捧げ、またもや激しい唱題が始まった。およそ七百年前、日蓮が立ったと思われるその同じ場所で、今、あの父が朗々と題目を唱えている。妙に感傷的な気分になった。時間にして正味10分ぐらいだったろうか。 唱題を終えた父は「もう思い遺すことはない。」と、神妙な面持ちで呟いた。佐渡の会館でのあと味の悪さがまだ残っていたには違いないが、どうにか、今回の旅で自分自身に課した責務を全うしたという安堵感が見てとれた。その後、日蓮と関係のある場所を何ケ所か回り、宿舎へと向かった。
* * *
翌朝、軽い朝食をすませ、すぐに宿を出て新潟へと向かった。新潟には昼前に着いた。飛行機の時間は夕方なので、出発までまだかなり時間がある。父が久々に一緒に映画でも見るかと提案したので(ひさびさどころの話ではない。父と映画に行ったのは小学校の頃の『2001年宇宙の旅』が最後だった)、わたしはすぐに市街地の本屋に行き、地元の情報誌を手に入れ、ロードショーの欄をチェックした。しかし、父が好みそうな映画はやっていない。「何もやってないよ」と告げると、しばらくの沈黙があった。 父がこの旅に満足していないことは分かっていた。いやな予感がした。「広宣、新潟のS学会の会館へ行こう」といきなり、父が言い出した。またもや予感が当たった。
「えっ………会館……」 正直、新潟の会館へは行きたくはなかった。おそらく、こちらは佐渡の会館より、その規模もはるかに大きいはずだ。職員も10名は下らないだろう。佐渡の件から見ても、会館の訪問許可証を所持していない相手に親切に応対してくれるとはとても思えない。組織は大きくなればなるほど機械化するものだ。佐渡であれほど痛い目にあっておきながら、父には全くこたえてはいない。仕方なく交番で会館の所在地を聞いた。会館は市街地のはずれにあり、タクシーで20~30分ぐらいかかるそうだ。いつものわたしなら、ここで父を思い止まらせたことだろう。――どうせ、門前払いを食らうだけだ。九州から出て来たどこのだれかも分からぬ半ばボケ気味の田舎老人に親身に応対してくれる人物などいるものか。タクシー代も無駄になるし、邪見に扱われれば、せっかくの旅の思い出が台無しになるやもしれない。ここはおとなしく博多に帰ろう――。咽まで出かけた言葉だったが、しかし、今回は敢えて制止しなかった。これは、父の人生の総決算の旅である。父は日蓮への積もる想いを共有できる相手を何とか、この地で見つけたいのだ。気の済むまでやればいい。最後まで父につき合おう。わたしはすぐにタクシーを拾いに走った。
郊外へと車を走らせること約20分。S学会池田記念会館というところに着く。車が止まると、父は何の躊躇もなく、すたすたと玄関の扉を開けて会館の中へと入っていった。恥を忍んで言うと、このとき、わたしは一緒に中には入らなかった。どうせ、また4~5分で追い返されてくるに違いないと思ったからだ。玄関前の喫煙所でタクシーの運転手と世間話をしながら一服して父の帰還を待った。ところが、5分、10分と経っても父が戻ってこない。嫌な予感がした。受付の人を相手にまた一悶着起こしているのではないか――心配になって、いてもたってもいられなくなり、様子をうかがいに中に入った。
思ったとおり大きな会館だった。玄関を入ると、右手にガラス張りの事務所があり、そこで10人以上の職員らしき人たちが忙しそうに動き回っている。しかし、受付の窓口のところには誰もいない。奥に入れたのかな――そう思って、ふと左手の方を見ると、奥まったところに小さなラウンジがあった。そこで、スーツ姿の中年の紳士と和やかに歓談している老人の姿が見えた。父だ。どうやら、話が弾んでいるようだ。大きな会館だけに逆に担当の係の人でもいたのだろうか。わたしは相手方の紳士に近づくなり、深々と会釈をし、お礼の言葉を告げた。紳士も丁寧に頭を下げて、名刺を差し出してくれた。「えっ……」名刺を見て仰天した。S新聞社新潟支局長――半田○×とあったのだ。何と父の相手をしてくれていた紳士は同性の人物だったのである。こんな北陸の地で同姓の学会員に遭遇するとは思ってもみなかった。
しかも、この半田氏なる人物の学会内での役職は新潟県の副総合長、つまり、県内No.2の大幹部だった。午後から幹部会が予定されいるらしく、たまたま、居合わせたというが、これは、まさしく父の執念の賜物以外の何物でもない。半田氏は父の来訪を心から歓迎している様子だった。いや、八十路をとうに過ぎた老人の佐渡行脚に痛く感銘を受けていたと言った方がいいだろうか。これほどの幹部ともなれば、おそらく、分刻みのスケジュールのはずである。その多忙な時間を削って、誠心誠意、父を歓待してくれている様子だった。懇切丁寧に日蓮の佐渡での幽閉の模様を語ってくれ、さらには、自分の生い立ちやI会長の側近としてヨーロッパを歴訪したときの様子などを嬉々として話してくれた。物腰の柔らかい、 とても感じのよい紳士だった。父と半田氏の会談は延々30分に及んだ。父は満面の笑みを浮かべている。この地で、自分と同じ想いを共有する、魂の同胞に最後の最後で巡り合えたのである。まさに逆転サヨナラ満塁ホームランだった。
会館を後にしたタクシーの中で、父の表情はまさに凱旋する戦士のそれだった。普段、S学会に対して若干の抵抗感を持っているわたしも、このときばかりは少し感動していた。ただ一言だけ、「よかったね。」といった。父は無言でうなずいた。
旅の疲れも出ていたのだろう。帰りの飛行機の中で、父はうとうとし始めていた。わたしはと言えば、会館の中へ一緒に入っていくことをためらった自分を恥じていた。父の生涯を賭けた旅に心からエールを送れなかった自分自身の心の狭量さを悔いていたのである。わたしは、あまりの居心地の悪さに、父に対して素直に謝罪することにした。「今回は、お父さんに学ばされました。申し訳ありませんでした。ごめんなさい。」耳の遠い父が、この謝罪の言葉を聴き取ったかどうかは定かではない。ただ、父は、この旅が、このような結末を迎えることを予期していたかのように、目を閉じたまま、ぽつりと二言だけ呟いた。「願いとして叶わざるはなし――。おまえのおかげだよ。」
実家での母との生活では、言ってることとやってることが正反対の父ではあるが、このときばかりは頭が下がる思いがした。祈願することとは何も他力本願で受動的に事の成就を待つことではない。祈願とは積極的な行為を伴ってこそ、祈りとしての意味を持つのだ。そして、また、人はそのような能動者であることによってのみ、祈願する心を利他へと純化していくことができる。
人が生きていくとき、そこには他者を通じて、か細い可能性の線が連鎖している。確かに他者という存在は、自己にとっては言葉の鉾先で穿たれた黒い穴であるだろう。しかし、その隙間にわたしたちは青空を見い出すこともあるのだ。祈りとはその青空に向けて捧げられるべきである。そして、何にもまして、重要なことは、そのとき同時に、自分もまた他者の青空となり得るよう、心から祈願することだ。父とはもう長い付き合いになるが、この日だけは、お互いの中にある青空を交換し得た感じがした。窓から見える雲海の中に沈む陽光がやけに眩しく感じられたのもそのせいだろう。
* * *
お父さん、本当にありがとうございました。
By kohsen • 10_その他 • 1 • Tags: 2001年宇宙の旅, 日蓮