11月 12 2013
虹色の襞の衣服を失って泣く女
ピカソやブラックに始まったキュビズムの絵画運動。今思えば、それは光の抽出への衝動だった。対象を対象そのものとして捉えること。そのとき表象は無限数の相貌を見せ、表象ならざるものへと変貌していく。結果、キュビズムは退散を余儀なくされる。
画家たちの衝動はそこで受動的なものではなく能動的なものを目撃する。カンディンスキー、モンドリアンetc。そこに出現するのは抽象的な線や面の世界である。
ここにはもはや受け取られたものとしての表象は存在しない。目の力の中で表象が何に成長していくのか、もしくは、そこから何が表象を成長させていくのかという、魂の律動の風景の問題がある。
時を同じくして、当時、物理学者たちもまた表象を超えるものの出現と格闘していた。量子力学だ。量子の世界では位置と運動量を同時に決めることができない。観測される前の量子的対象は確率の海で泳いでいる・・etc。物理学者たちが当時出会っていた対象とは、実のところこのキュビストたちの作品のイマージュの力にほかならない。
対象を取り巻く無数の多視点。そしてその多視点でその表面が埋め尽くされた不可視のたま。それが時間の中では回転として現れ、時空の中では平面波として波動化する。たまというすこぶる単純な形象が時間と空間という物理表現の形式の中で無意味に複雑化されていくのだ。
わたしたちの魂は本来、この「多視点でその表面が埋め尽くされたたま」が七重になって織りなす虹色の襞から作られていた。それは現代物理学が内部空間(余剰次元)に見ている7次元の球面と同じもののように思える。つまるところ物理的時間とはこの七層のたまで縫われた魂の衣服を見えなくさせているものである。
神話によれば、女神イシュタルは冥界へと下るときに身につけたその美しい七枚の衣服を次々と脱ぎ捨てていったという。おそらく人間とは全裸のイシュタルである。僕らは一人の女として今、冥界の深淵に立たされ、むき出しの皮膚から多くの血を流し続けながら泣いている。この神話は語る。彼女は再び七枚の衣服を一枚づつ取り戻し「天界と大地の女王」として再び蘇ると。。
11月 15 2013
リターン・トゥ・インノセンス
奥行きの幅への従属は、差異の同一性への従属に同じ。一方、幅の奥行きへの従属は同一性の差異への従属に同じ。前者が「繰り広げ」の空間であり、後者が「巻き込み」の空間。両者には絶対的な差異がある。前者を物質空間とするなら、後者はエーテル空間(魂の形象化)の空間である。
奥行きが幅に従属して現れるとき、つまり、認識が奥行きに幅を見ているとき、真の奥行きは幅側に潜在化して回り込んでいる。これが自他において重畳化することによって、直線的時間の形式が出現している。
これは差異化した内在性の空間から見れば、時間が左右方向に走っていることを意味する。これが状態ベクトルの時間発展としてのユニタリ変換を促しているのだろう。
時空は先日のコタローさんの言葉を借りるならば「先行的投射(大沢真幸)」によって生じているものであり、あくまでも差異の差異化(ドゥルーズ)によって生まれている結果の世界にすぎない。言語の母胎も「奥行きの重畳=共有」がもたらす一般化させられた視線と深い関係を持っている。
こうした「先行的投射」がその原因に向かおうとするところに差異としての主観が形成されているのだが、原因としての主観から結果としての時空の提供への意識回路はアプリオリに潜在的なものとして活動するだけで、人間の認識には上がってこない。
ここに存在する順行的反復がドゥルーズのいうクロノスである。言葉と知覚はこのクロノスの内部における時間の反復によって何重にも襞化され、「先行的投射」による権力のダイアグラムを巧みに構造化していく。
これらのダイアグラムを解体するためには逆行的反復、つまり、アイオーン(永遠回帰)の到来という奇跡が必要なのだ。それは主観が先行的投射に対して受動的なものではなく、能動的なものへ変身を企てるところにしか起こらない。それがドゥルーズのいう第三の反復の真意なのだろうと思う。
そのような意味で、ヌーソロジーが提示する幅優位の空間認識から奥行き優位の空間認識への移行は、この第三の反復と深く深く関係している。
第三の反復………それは生まれたての幼児へと変身を企てること。そして、そこに芽生えている眼差しを星へとつなぐこと。そして、それらの星々が美しい星座を描くこと。。Return to Innocence!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 07_音楽 • 0 • Tags: エーテル, ドゥルーズ