11月 19 2013
Sさんとのツイッター問答
久々のSさんとのツイッター問答。解説も兼ねてちょっとご紹介してみようかなという試み。
Kohsen: 回転による群の構成は観察空間(=精神)を不動の位置に持って行くための空間の収束性を表している。波動関数→U(1)群→ブロッホ空間→スピノール→2成分スピノールのテンソル積という順序で、観察空間の不動性が形成されている。そこで構成されてくるのが時空そのもののイデア。
【解説】
ここで言っている「回転による群の構成」というのは、複素ユニタリー回転群のことです。量子力学や場の量子論では、複素空間における回転対称性というものが粒子の運動方程式(シュレディンガー方程式やディラック方程式)のかたちを変えない(系のラグランジアンを保存する)条件としてとても重要な役割を持っています。こここでは波動関数を一つの対象をめぐる視線の回転としてイメージしています。奥行きが虚軸、幅が実軸です。視線が一つの対象を巡るというのは、先日、ピカソの「泣く女」で説明したような状況と思ってもらえばいいです。彫刻家が完成した彫刻の姿を事前に頭にイメージしているとき、彫刻家の意識は想像空間の中で、彫刻を様々な角度からイメージしています。こうした想像空間が波動関数によって構成されていると仮定しています。
このことは、別に彫刻に限らず目の前にあるただのコップを見ているときも同じだということがわかります。目に見えるコップは知覚像としては平面の像でしかありませんが、意識はそれを様々な角度から見れば、違った見えがあると認識しています。つまり、ここにも想像、言い換えれば、別の見えの可能性を想定した意識の運動が起こっているわけです。ヌーソロジーはこの意識が持った想像的視線のグルグルの取り巻きを波動関数ψだと仮定して、物理学を意識の理論に書き換えられないか、ともくろんでいるわけです。
さて、こうした想像的対象は僕らの周囲に無数に散在しています。対象の持った立体性は視覚ではあくまでも想像的にしか捉えられないからです。では、意識が他の対象に実際に注意を向けるときに何が起こるでしょうか。実際に他の対象の視像を捉えるためには、視線をそれぞれの対象の方に投げかけるための首振り運動、もしくは姿勢の回転が必要となります。もともと回転しているイマジナリーなものにさらに上位から回転を加えて回すわけです。これがここで言うU(1)群の次元です。そして、こうした回転は、一つの対象に対するグルグルと同じように、実際に首を回さなくても意識の中で自分の周りには無数の対象がある、と思った時点ですでに想像的回転として作用していると言えます。
自分から広がる空間全体にこうした意識を働かせたときの球体を「ブロッホ空間」として仮定しています。ここでいうブロッホ空間というのはブロッホ球を意味しているのですが、ブロッホ球というのは物理的には波動関数ψ(状態ベクトル)が規格化されて単位球面上で表現されるような空間のことを言います(掲載図参照)。ヌーソロジーの文脈からすれば、これは奥行きを虚軸と見立てたときの知覚球体(自分の周囲の球空間)と同じものだと考えられます。言うなればモナド(魂)の数学的形式ですね。
さて、次にスピノールが出てきますが、スピノールという物理概念は、本来、物質粒子が持った角運動量のことです。角運動量とは何かがグルグルと回っているときに、その回転軸方向に働いている力の量のようなものと思うといいです。物質粒子も内部空間の中でグルグルと回っていて、そこに軸が立っていると考えます(もっとも実際に観測にかかるスピノールの場合はこの軸が勢いを失くしたときのコマのように傾いているのですが、その垂直成分を取るとh’/2(h’=h/2π)となっているので、物質粒子はスピン1/2の粒子とか呼ばれます)。
さて、ここでこのスピノールが何を意味しているかということですが、ここにはOCOT情報からの示唆による推理が働いています。その示唆というのが「面-点変換」もしくは「対-線変換」の原理です。OCOT情報によれば実際の次元(物理学的次元ではなく、意識を構成していくための観察子の次元のこと)というものは幾何学的には球面を点に変換していく、もしくは球体を一本の線分へと凝縮変換していくことによって、構造化されていると言います。(「面-点変換」よりも「体-線変換」の表現の方が分かりやすいと思うので、以後「体-線変換に統一します)
昔、量子論の本を眺めていて、すぐにハッとしたのは、波動関数がベクトルとして表現されているということでした。波動関数とは回転の表現です。それもx,y,zという成分を考えればこれは球体に3方向に巻き付いた回転のイメージです。ところがそれがヒルベルト空間上ではベクトル、つまり線分として表されている。まさに「体-線変換」が起きているのではないか!!そう思ったのです。
それからというもの、おそらくこうした「体-線変換」の無限の連なりがこの空間にはある。物質はその連なりでできている。。それを見出していくことがヌース的次元上昇のことであり、創造空間への参入の意味なのだろう、と考え始めました。最初の頃は、夜中のファミレスでタパコの箱を目の前でグルグルと回していました。何時間もそういうことをやってコーヒー一杯でねばっているものだから、ウェイトレスが気味悪がっていたっけ(笑)
そこで気づいたのは、モノは回っても背景の空間は回っていないということでした。背景の空間を回すためには自分がタバコの箱の周りを回らなくてはいけない。。。すぐにピンと来ました。ここで第一段階目の「体-線変換」が起きているのだと。言い換えれば、視線という一本の線分がすでにタバコの箱という立体をすべて含んでいるということです。だから、タバコの箱をグルグルと回しても視線は不動、つまり動かない、タバコの箱をあらゆる角度から見たその見え姿はすべて視線という一本の線分の中に吸収されている。。そう思えてきたのです。
そうやって、空間は次元を上げている。ならば次の次元の階層は何だろうか。。単純です。背景の回転が起こる空間ということになります。そうやって今度はタバコの周囲を回って自分の視線を回し始めたのです。さすがに、ファミレスではやれませんが(笑)
自分がタバコの箱の周りを回れば今度は背景も回転を始める。。おそらくこの背景空間の回転も一本の視線の中に束ねられているのだろう。。そして、このここで線分へと束ねられた空間が第二段階目の「体-線変換」に相当してくることになります。。。勘のいい方はもうお分かりになられたかもしれません。この第二段階目の体線変換が波動関数ψの状態ベクトルとしての表現形式になっているということですね。。。
ありゃま、長くなってしまった。まだ、最初の1ツイートについての解説にもなっていないのだけど・・・
11月 22 2013
Sさんとのツイッター問答 その2
さて、昨日、紹介した「体-線変換(球空間をその半径部分の線分へと凝縮するようなイメージ)」の幾何学的な仕組みはとても単純で、詳しい解説は省きますが、正八面体と正六面体の内接-外接関係を繰り返していくカタチとして表現することができます。ヌーソロジーではこのカタチを「ヘキサチューブル(HEXATUBULE)」と呼んでいます。というのも、このカタチを正六面体の立体対角線方向から見ると、無限に続くヘキサグラムの回廊のように見えるからです(下図参照)。OCOT情報はこの回廊のことを「意識が通る道」と表現していました。このカタチは真実の次元上昇路というものが4次元性と3次元性を相互に連接させながら発展していくということを意味しています。Sさんがよくおっしゃている「2×2=3+1」の幾何学的表現と考えていいと思います。現在の人間の空間認識はヘキサチューブルにおける最も下部に息づく正八面体と正六面体の関係しか知りません。それが時間と空間に当たります。その意味で言えば、このヘキサチューブルは時空を超え出て行く次元上昇のための階段のようなものと言えると思います。キリスト教的に言えば天使が昇降するヤコブの梯子ってとこかな。
僕自身は、2008年ぐらいからこのヘキサチューブルに沿って現実の空間を見るように努めていたのですが、そのうち、ヘキサチューブルに内包された「線-体変換」の概念が意図するところがハッキリと分かり出してきました。それは一言でいえば、「あらゆる出来事を不動の視線の中に見る」ということです。これは「絶対不動の身体空間」を獲得することと同じ意味になります。視野空間上で展開されている日々の情景を一つのスクリーンに映し出された映画のように見るということですね。このとき、「わたし」は不動のスクリーンそのものとして感じてきますが、こうした認識によって純粋に視覚的な空間の抽出がなされ、既存の身体感覚から物質体の部分が除去されていくような感覚が生まれ、「わたし」とは本来、空間に遍在している存在であるという感覚が強くなってきます。純粋なエーテル空間の知覚のようなものでしょうか。「いつでも今、どこでもここ」としての光の身体の顕現と表現していいかもしれません。
動いているのは世界の方であって、けっしてわたしではないとする感覚——こうした感覚は誰でも一度は経験したことがあると思うのですが、でも、普通はすぐに普段の3次元的な身体感覚の中へと引き戻されてしまいます。しかし、ヘキサチューブルという思考装置が思考の中に組み込まれていると、この絶対不動の感覚をがっちりと意識にフィックスすることができるようになってきます。要は光の身体を支えるための構造的な思考がその感覚を強力にサポートするわけですね。
ただ、ヌーソロジーの場合はこうしたライトボディを獲得することだが目的というわけではありません。大事なことは、「そこで認識されているヘキサチューブルの構造が物質の創造の基盤」になっているということです。そうした連結がなければヘキサチューブルは単なる観念にすぎなくなり、イデアとはほど遠い存在になってしまいます。思考と対象との一致がイデアの絶対条件ですから、ヘキサチューブルのカタチの思考そのものが現実に存在するとされている素粒子になっていなくてはならないのです。——つづく。
続きを書いたら、何か話が細かくなってしまった。すまんこっです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ヘキサチューブル, 佐藤博紀