11月 26 2013
Sさんとのツイッター問答 その3——「対象認識と複素平面」
創造空間としてのノマド。シリウスの回廊。グリーンエーテルに満たされた宇宙的葉緑体の内部。どんな形容も可能でしょうが、このヘキサチューブルの内部においては「私はここにいます。(I’m here.)」という応答と「あなたがそこにいてよかった。(I’m glad you’re there.)」という呼びかけの声が此岸と彼岸を挟んで絶えず反復しています。地上では決して不可能とされる「わたし」と「あなた」の等価交換が間断なく起こっている場所なのです。
ヘキサチューブルに示されているヘキサグラムの階層性はヌーソロジーではそのまま次元観察子という概念に対応しています。次元観察子とは人間の無意識構造を象ってる幾何学的な構造体で、一応、ψ1〜2から、ψ3〜4、ψ5〜6、ψ7〜8、ψ9〜10、ψ11〜12、ψ13〜14というように7段階の層空間で構成されます。虹の階梯ですね。まだ明確ではありませんが、これは物理学的には以下のように対応させることができると考えています。
1.時空 Spin(1) = O(1)?
2.光子 Spin(2) = U(1)
3.クォーク(u,d) Spin(3) = SU(2)
4.クォーク(u,d)L,R Spin(4) = SU(2) × SU(2)
5.陽子と中性子? Spin(5) = Sp(2)………SU(3)とはズレがあります
6.電子の参画 Spin(6) = SU(4)
7.クォークとレプトン SU(5)………残念なことにSpin(7)とはなりません
この順番を見ても分かる通り、物質の基盤となる素粒子の世界は時空よりも巨大な空間構造を持っています。しかし、これら光子に始まり、クォークとレプトンを統一的に記述できる場が展開されていく場所は数学的には複素空間と呼ばれている場所ですから、時空(ミンコフスキー空間)とは絶対的な差異を持った場所として考える必要があります。この複素空間における最初の次元が複素1次元空間C、つまり複素平面です。この複素平面を構成する虚軸を奥行き、実軸を幅と見なして素粒子世界の風景を詳細に描写していくのがヌーソロジーの根幹を支えている次元観察子の世界と言っていいと思います。つまりは、ヌーソロジーは現代物理学が自然界の中に実際に見出している高次元構造を一つの設計図と見立て、高次の空間知覚と空間感情の力によって次元上昇の回廊を組み立てる建築術でもあるのです。この建築術は一度ハマると抜け出せなくなるのですが(笑)、ここでは第二階層の光子のイメージについて簡単に説明を加えておきましょう。
対象を見る際、わたしたちの視線は例のピカソの絵のように対象取り囲んでグルグルと回転していると想像して下さい(下図参照)。もちろんこれは意識における潜在的な回転です。こうした回転があるから対象が立体として認識されていると考えてみましょう。虚軸はその定義上、長さを持ちません。ですから、その回転が対象を取り込んでいるかのように感じたとしても、その取り囲みは時空上の出来事ではなく複素平面上での出来事であり、それは物理学に沿って考えれば対象の中心部にごくごく小さく縮んで入り込んでいると考えなくてはならないことになります——対象を包み込んでいるかのように見えるものが、実は対象に包み込まれるものとしてミクロの一点に射影されて入り込んでくる仕組みがわたしたちが経験している空間に隠されているわけです。ただ、このとき、この収縮のイメージを無理矢理、対象の中心部に位置づけようとする必要はありません。そうした衝動は今までのマクロ-ミクロ認識に縛られた思考が提供しているものであって、まだまだ大小感覚に囚われた思考といえます。認識のカタチがたとえ対象の外部を取り巻いているように見えたとしても、この複素平面は奥行きが幅を従属させている空間ですからそれはそのままでミクロ世界となっていると考えれば、それでOKなのです。
つづく
11月 29 2013
5次元空間の回転を巡って
Sさんに習ったSp(2)→SO(5)は面白かった。SO(5)というのは5次元の回転群のことだけど、これを行列で示すと形がガンマ行列に酷似してくる。ガンマ行列は主観と客観の形成の位置ではないかと考えているので、意識の発生はユークリッド的には5次元で起こっていると予想される。
この構造を巡ってSさんといろいろと議論したのだけど、イメージがかなり重なり合った。4次元で対象の内部性と外部性を構成したあと、5次元で今度はその両者を捻るような交差が起こるのだ。そこに内部から外部へ、外部から内部へという志向性が生まれてくる。前者が客観で、後者が主観に当たる。
これはポスト構造主義の問題意識とも深く関わっていて、象徴界(言表可能性)と想像界(知覚可能性)の間の亀裂(現実界)の構造を示唆していると思われる。人間の認識は対象が与えられたところからしか生まれない。対象そのものの起源は「もの自体」としてそのまま不問にされる。
ドゥルーズなんかはその「もの自体」の世界(創造空間)へと差異の思考を携えて果敢に入っていこうとしているのだが、残念ながらその構造性が今ひとつ定かではない。現在の人間にとって何よりも需要なことはこの言葉と知覚の間の亀裂を埋めることのように思えてならない。
その連結の構造が数学や物理学が先取りして記述しているというのは、ほんとうに驚異的だ。願わくば、Sp(2)=SO(5)といった単なる記号の羅列に終わらせるのではなく、そこで示された構造にわたしたち自身が侵入していくことが望まれる。それは不可能ではない。
考えてみれば、すでに1989年の段階でこのSp(2)→SO(5)のビジョンはOCOT情報によって送られてきていた。僕が「ヌースコンストラクション」と名付けたものだ。OCOT情報は「5次元球」、もしくは「覚醒球」と呼んでいたっけ。。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, 主観と客観, 佐藤博紀