8月 28 2013
ヌーソロジーVSシュタイナー
8/22(木)午前10時より、NOOS LECTURE 2013 in 東京 第2回の申込みの受付を開始しました。ただいま、絶賛受付中!!詳細はこちらをご覧下さい→http://noos-academeia.com/blog/?p=1354
去る8月24日の土曜日、神戸で『ヌーソロジー×シュタイナー』というトークイベントが開催された。主催は観音企画さん。会場には関西ヌーソロジー研究会の皆さんをはじめとして総勢50名に近い人が集まって下さり、2次会まで大いに盛り上がりを見せた。この場を借りて、参加していただいた皆さん、司会を担当していただいた関西ヌーソロジー研究会代表の川瀬さん、そして観音企画のKaoruさんと鈴木さんに感謝の念を表したい。どうもいろいろとお世話になりました。ペコリ。
さて、公開の場で、ヌーソロジーが他の思想・哲学とセッションを行うというのは初めての試みだ。僕自身、このイベントのために前もってシュタイナーの著書を4〜5冊ほど読んで臨んだのだか、受験勉強のようなつけ刃の詰め込みではシュタイナー思想の壮大な厚みはとてもつかみ取ることができない。ヌーソロジーからいろいろと突っ込みを入れようと思ったものの、逆に福田さんによる幅広いレンジのシュタイナー解説に「ほぅ〜」と感心するばかりで、スリリングな対談に持っていくことができなかった。やはり、シュタイナーは巨人。ヌーソロジーは新入幕程度のレベルということなのか。。。とほほ。いや、僕にはなかなかそうは思えない。しっかりと突っ込んだ議論こそできなかったが、ちょうど北の湖全盛時代にキラ星のごとく現れた千代の富士のように、ヌーソロジーには現代感覚にマッチしたスリムなシャープさがあると自分で勝手に自負している。現代において人間の知性の営みに霊的な感性を蘇らせるには、時代にマッチした表現力というものが必要なのだと感じている。シュタイナーに物足りなさを感じるのはたぶんその時代感覚の強度にかけるところかもしれない。
とは言うものの、シュタイナー霊学はほんとにすごい思想体系になっている。今回、ゲストとして招待された福田秀樹さんはシュタイナー自身が敢えて避けていた、「シュタイナー宇宙論の構造分析」に取り組んでおられる方なのだが、その枠組みの解説を聞いていると、こと構造面に関する限り、ほんとにヌーソロジーとそっくりなのである。おそらく、現代人がシュタイナーの思想を受け入れづらいのは、やはりその多くが霊視を通じた超越的な知識の記述で満たされているからだろう。ほとんど宗教に見えてしまうのだろうと思う。ディルタイを意識したのかどうかは知らないが、シュタイナーは自分の思想を『精神科学』と呼ぶことを好んでいた。シュタイナーの思想は確かに奥が深く、意味深ではあるのだが、それでも従来の哲学や科学からはかなりの飛躍がある。おそらく、この飛躍を現代思想や現代物理学の知見を持って埋めていく役目をヌーソロジーは担っているのではないかと考えている。
シュタイナーは修行によって誰でも霊視力が芽生えてくるものと言っているが、霊視力が超感覚的な高次元知覚の力であるならば、それは文字通り、数学的な意味での高次元の幾何学的概念ともリンクしなければならないし、実際の現象世界においてもその存在の徴表を、素粒子の振る舞い等の現象的事実として指し示すことができなくてはならない。そういう作業を通してこそ、霊的知識は多くの人々に相互了解可能な知識となるのであり、精神科学という表現もその達成において、初めて違和感のないものになるのだと思う。
超古代建築のあまりの壮麗さの前に一瞬ではね飛ばされるモダニズムの建築家のように、僕自身もシュタイナーの思想の射程に一瞬眩暈を感じはしたが、未来の建築物は超古代の建築物が持った圧倒的な存在感を乗り越えるところにしか出現しない。超古代はやがて到来する未知の絶対的未来を朧げに模倣しているだけだと感じている。だから、ヌーソロジーの試みは必ず成功する——そう思って作業を続けるしかない。
観音企画さん、川瀬さん、参加していただいた皆さん、そして、福田秀樹さんに、重ねてお礼申し上げます。
(上写真提供/関西ヌーソロジー研究会の原さん)
9月 17 2013
リール・フィルム・スクリーン・光
奥行きの開示は忘却された絶対的記憶を蘇らせるための序曲だ。それは自己が他者の元へと渡る回廊の入口であり、双方を隔てていた永遠の距離を埋めるための最初の一歩でもある。その奥裡には無窮の二重のスパイラル運動が展開しており、その軸心にはアイオーンと呼ばれる宇宙の自己運動が展開している。
誰もがふと持ったことのある直観——ひょっとして高次の自己とは「あなた」のことではないのか。であるならば「わたし」とは何者なのだろう。「わたし」は世界から減算されるべき存在ではないのか。「わたし」は、あの詩人がいつも言ってたように、むしろ「あなたのあなた」であるべきではないのか。。
世界があなたと「あなたのあなた」の世界になったとき、それは楽園と呼ばれることになるだろう。そのためには「潜在的なもの」を呼び起こさなければならない。そのルートを通じて初めて「わたし」は「あなた」へと交換される。存在はこの「わたし」と「あなた」の交換を潜在的なものの内で行っている。
わたしをわたしにつなぎ止めているのは太陽である。「22」の襞と「13」の音階の中で太陽は常に同じものを反復させている。この同一化の病は「男」と呼ぶにふさわしい。「わたしはわたしである」と誇らしげに叫ぶのはいつも男の方なのだ。
女は「13」を「1」には回収しない。言葉の同一性にも数の同一性にも女は納得しない。「女」は肉体的に欠損している部分を、裏では精神的な余剰へと変換している。この余剰の変換が月の役割である。女はその意味で「14」を持っている。「14」とは「1〜13」の反復を超えたところの外部である。
それは同一性に対して双数性として機能する。つまり女は本来、一人で双子、両性具有者なのだ。地球と太陽が取り結ぶ「12」の関係に対して(13は1に回収されている)、月は14の双子性を表現するために「28」を示す。この「28」がわたしとあなたとを結ぶ二重のスパイラルの土台となっている。
生命が女によって連続化しているということ。これは女こそが潜在化した連続的な多様体の象徴であるからにほかならない。わたしたちは太陽のもとに長い間、眠らされていた女=月を目覚めさせるときに来ているのだ。おそらく男にはこの話は分からないだろう。
フィルムのリールがカラカラと回り、シーンの連続性が運動を作り出す。横に流れて行くフィルム、それを運動として露にするための光。そして、映される場としてのスクリーン。時間と現在と持続の関係を、このフィルムとスクリーンと光の関係としてイメージしてみよう(下図参照)。
重要なことは光は時間に直交して初めて持続の力を持つということ。光が時間と同じ方向に向いてしまえば、光は死ぬ。死んだ光はスピンゼロ。奥行きに時間を見ているわたしたちは死せる光、要は闇を彷徨う光と言える。
秒速30万Kmという光は時間に沿った光。時間の中から光を救出すること。それがグノーシス者の仕事である。そこに現れてくるのは双子の光。スピン±1としての光。幼き神の双生児。向かい合う「あなた」と「あなたのあなた」。
そこにはもはやかつての「わたし」は存在しない。「わたし」とは時間の中に眠っていた光のことをいうのだから。これによって世界から「わたし」を差し引く減算が可能になる。女の世界が目を覚まし、太陽の背後にある隠れた太陽としてのシリウスが世界を照らし始めるだろう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: アイオーン, グノーシス