12月 17 2013
改めて、言葉とは何かについて簡単に書いてみる
——OCOT情報では「言葉はヒトの定質において作られ、ヒトの思形において送り出される」と言います。あまりにもあっさりとしたもの言いではあるのだけど、その意味はおおよそ次のような感じです。まず前提として精神には彼岸と此岸というものがあるということ。正確ではありませんが、便宜上この両者を人間における「あなた」と「わたし」と呼ぶことは可能です。文字通り「あなた」という存在は「彼方(あなた)」にいると思えばいいでしょう。OCOT情報がいう〈ヒトの定質〉というのはすでにこの「あなた」と「わたし」のどちらの精神も持ち合わせている統一的精神のことを言い、その力は言うまでもなく自他を等化しています。
これは裏を返せば、人間が用いる言葉の場所ではすでに自他は等化を前提として生きているということを意味します(同一化を余儀なくされているということでもあるのですが)。言葉によってコミュニケーションが成立するのはこうした統一的精神が人間存在に先駆けてセットされているからだと考えるといいと思います。先行的に投射されたものという意味では言葉と外在世界(時空)とはほとんど同じものです。ですから、言葉の発生が世界を出現させると言い換えてもいいわけですね。
このように言葉と外在世界の由来が同じものであるのならば、外在世界とはすべて概念(悟性による言葉の力)の産物にすぎないとも言えます。一般には言葉は人間の意識が知性的段階にまで発達することによってモノに貼付けられたラベルのように考えられていますが、決してそのような表面的なものではなく、モノとともに練り上げられていった精神による生成物のようなものだと考えなくてはなりません。だからこそ言葉は物質の多様性や複雑性に対していつまでも付き添うことができるのです。つまりは亡き父(姿を消してしまった創造者)の痕跡として言葉もまたあるということです。
もちろん、実際にはわたしたちの内在性も言葉で多様に表現されているわけですが、あくまでもこの内在性は外在性に従属させられた状態でしかありません。本来、結果として出現している世界を原因と取り違えてその中に縛られている——それが現在の人間のこころの在り方です。結局は死せる神霊にすべてが支配されているという例の神話パターンに尽きるのですね。古来より言葉が「呪(しゅ)」と言われるのもそうした縛りから来ているのだと考えて下さい。
しかし、同時に人間は新しい精神の誕生に向けて方向付けられてもいるのです。知覚が降り立つ場所(主観世界=感性)とは本来そうした方向付けをされた場所であり、ここでは同一性から抜け出そうとする新しい精神の胎動があります。哲学的に言えば、知覚というのは本来、存在論的差異(同一性から抜け出そうとしているということ)を持とうとしている場所なのです。存在における人間の役割とはこの新しい精神に向けて存在を脱皮させることにあるのですが、そこにおいては言葉はその胎動を何とか押さえ込む抑圧的な力としてしか働きません。唯一、詩の言葉を除いては、ですが。。このへんはポスト構造主義の識者たちがすでに指し示していることではありますが、いかんせん問題は新しい精神の覚醒というものが果たして従来の言語の同一性を拠り所とする思想という思考作業の延長の中で可能なのかどうかということ。思想の思考は言葉で紡ぎ出されるものだから、結局は同一性に回収されざるを得ないのでは?というのがヌーソロジーの思想全般に対するスタンスなのです。
自己と他者、知覚と言葉、被造物と創造者。。。こうした二元的な対比はすべて互いに深いつながりを持って存在全体の機構の中でネットワーク化されています。言葉はこの中でこの全体性を閉じるものとして働いているのです。と同時に新しい精神の種子としてもうごめいている。この種子を発芽させること、この全体性を開かれた全体性へと持って行くこと、それが今、世界に要求されていることではないかと思っています。そのために必要なのが、この存在の根幹となる創造の回路を幾何学的に表現し、そのトポロジーの助けを借りて人間の役割というものを存在全体との関係において見つめ直すことだと思ってます。別にここでいう「人間」というのは人類とか大仰な意味では決してありません。それは個として生きる「わたし」自身のことです。現代物理学というものはその創造の回路の青写真として登場してきたのだと僕は思っています。だからこそヌーソロジーはここに執拗にこだわるのです。
12月 20 2013
宇宙の種子「フォニオ」と複素空間
11月のレクチャーでは「ドゴンの宇宙哲学」のあらましを話したあとに複素空間の話をしようと思っています。ドゴンと複素空間に何の一体何の関係があるんだと訝しがる方も多いかもしれませんが、ドゴンの宇宙哲学では宇宙の創造は神アンマが作り出すフォニオと呼ばれる一つの小さな種子から始まります。
このフォニオは「宇宙で最も小さいもの」とされ、かつ同時にそれは「前の宇宙の要素をすべて含んだもの」ともされます。前の宇宙はアカシアと呼ばれるのですが、その正体は明らかではないのですね。宇宙のほんとうの始まりはドゴン神話でもナゾなのです。ただ神アンマは「フォニオによって物質をはじめた」と言われています。
フォニオは七段階の振動を作りながら自らの内部で螺旋状に成長していきます。この七段階の振動を発展させていくのは種子の生命の本質とされることばの活動です。ことばの力によって種子がその内部で成長を遂げていく。。そこからこの種子は螺旋状の旋回を方向を反転させ世界を開いていきます。
神話を未開人の子どもっぽい馬鹿げた空想の産物ととる人たちもいますが、神話は決して過ぎ去った遠い昔の話ではなく、今現在、人々のこころの内部の深い場所で起こっている力の流動の物語と言ってよいものです。その意味では人は未だ神話の中にしか生きていないし、また神話の中でしか生きられない。。
さて、こうした話がなぜ複素空間と関係するのか——ということですが、僕にはこのフォニオが現代物理学にいう光子のことのように思えてならないからです。ドゴンの神アンマは自らが作り出した前宇宙アカシアが持っていた四元素をすべてフォニオの中に入れ込みます。
フォニオはアカシアの宇宙から見れば最も小さいものですが、同時にアカシアの宇宙をすべて含んだものと言えます。光子にも似たような性質があります。皆さんもよく知っている「ホログラフィック」と呼ばれる性質です。
部分=全体、全体=部分という考え方ですね。いわゆる現代版モナドです。光子は物理学的に言えば物質の始まりであり、また世界で最も小さなものとも言えますが、同時にそれは世界全体を巻き込んでいる。そのような在り方で実際に存在しています。
ですから、この光子は大小関係がきっちりと規定される古典物理の枠組みの中では正確には記述することができません。そこに登場してくる数学的な道具立てが複素空間というものなのです。複素空間の次元というのは一つの次元単位が2次元で構成されます。
つまり、互いに直交する実数軸と虚数軸で作られる複素平面が複素1次元と呼ばれるものになります。光子はこの複素1次元の空間上でで描かれる単位円周上でグルグル回転しているものとして記述されます。ドゴンの神話ではフォニオは双子です。現代物理学でも光子は双子です。その双子性は光子が持つ角運動量(スピン)の固有値1と−1として表されています。
ということで、次回のレクチャーは前半を「ドゴンの神話」について語り、後半を「複素空間」についての解説をしながら、存在の種子であるフォニオの正体についてヌーソロジーの観点から謎解きを進めていきたいと思っています。
数学的な話はまだそんなに詳しくしないので、数学が苦手な方でも何の問題もありません。興味がある方は是非レクチャーの方に足をお運びいただければと思います。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゴン, 複素空間