9月 26 2013
虹を渡るオオカミ
OCOT情報がなぜ真っ先に「素粒子について思考すること」を勧めてきたか。それが今はよく分かる。それは世界のあらゆる対象の中で素粒子だけが即自的対象として”在る”からだろうと思う。つまり、素粒子について思考することが、思考するわたし自身について思考するという必然性を生むからだ。
「思考するわたし自身について思考する」というのは、対象と概念の一致と言い換えてもいい。文字通り「世界とはわたし」を実行する思考のことだ。ここにおいて思考は一つの行為である。こうした思考こそが能動知性が持った思考と言える。思考が物質に直に触れるのである。
思考が物質に直に触れたとき、「わたし」という存在は必然的に世界から退散する。主観と客観が一致するところに、もはや「わたし」はいないからだ。この一致によって今まで主体が固執していた「それは何か」という問いかけは「わたしとは誰か」という問いかけに変わり、その誰かを求める欲望が生じる。
そのような空間が創造空間というものである。そこでは疑いようのない在り方で彼岸と此岸の眺望が開けてくる。そしてこの二つの岸の間には疑いようのない在り方で「七色の虹」が架かっている。思考は一匹の狼となってこの虹の橋を渡っていかなくてはならない。
そんなイメージを製品デザインに使ったのコレ(どひゃ!!)笑。今はなき「ヌースシガレットボックスOff」。ほとんど自分のために作った製品のようなもの。年配のお客さんから電話がかかってきて「おたくの社長はキチガイか」と言われた伝説の一品。
10月 1 2013
外部の外部は内部
OCOT情報に拠れば、人間における受精から誕生までの胎児の胎内生活は覚醒期の投影だという。発生初期は卵割に始る胚発生から、外胚葉、内胚葉、中胚葉という三胚葉を形成していくのだが、このトポロジカルな変化の運動は素粒子のシステムの構造変動がその母胎になっているという。共鳴してるわけ。
素粒子のシステムの構造変動を「潜在的なもの」と仮定すると、この「潜在的なもの」は卵割に始まる胎児形成とも密接な関係を持っていることになる。ドゥルーズもこのへんのことを少し語っていたが、かなりアバウトなものだった。
この両者の構造変動を比較して最初に気づくのは、やはり空間の内部性と外部性の問題。たとえば外胚葉から内胚葉の形成は原腸陥入と呼ばれる窪みの成長から生起してくるが、ここで反転構造が介入し、外部の外部が内部化するような仕組みになっている。(下図参照:Wikiより転載)
外部の外部の内部化というと分かりにくいかもしれないが、大雑把に喩えると、時空と意識の関係のようなものと考えるといい。時空を外部とすれば、意識はそれを認識するものという意味で外部の外部である。しかし、その外部の外部は時空の内部、つまり、物質として表現されてくるということだ。
素粒子のシステムではそれは第一量子化と第二量子化として表れている。粒子だったものを波動場に置き換える。これが第一量子化。次にこの波動場を再び粒として表現するために場の量子化を行う。実際、場の量子化において始めて粒子は時空の中のものとして扱えるようになる(相対論的)。
これを奥行きと幅の関係でいうと、外部の外部とは時空を観察する軸としての奥行きにあると考えるといい。奥行きは4次元なのでいとも簡単に時空の内部側、つまり物質の中に入り込める。入り込んだところで、自分自身を物質の外に出すために今度は幅方向へと位置を持って行く。
そして、その幅方向の視点の位置を奥行き方向に変換し、、、、という形で何度もこの運動を反復させ、時空の内部に自らの意識の運動をまるで織物か毛糸の玉のように織り丸め上げて行く。そういういう仕組みになっているように見える。
物質が空間に対して「めくれている(本来見えない部分が裏返しになって出てくる)」と僕がいつも言っていることの意味が少しは伝わるだろうか。。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: ドゥルーズ, 外部と内部, 素粒子