8月 22 2018
局所的U(1)対称性とは想起のシステム
おなじみ。ハイデガーの被投と企投……。この被投性と企投性とを合わせ持って生きているのが世界-内-存在しての人間だ。これらの概念を空間的に表現すると、いつも話している「人間の内面」領域と「人間の外面」領域として表現できるだろう。物理学的にいうなら、被投と企投の関係は、時空とその一点一点に貼り付いた内部空間の関係ということになる。
内部空間とは素粒子が活動している場のことを言う。この空間は、大統一理論で言うなら、U(1)(ユー・ワン)に始まりSU(5)(エスユー・ファイブ)までの「局所的ゲージ対称性」を持つ空間構造によって支えられている(「ゲージ理論」と言います)。
SU(N)とはN次元複素ユニタリー群の略称で、簡単に言うなら、そこで素粒子はグルグルと高次の回転のネットワークを形作っているのだと考えるといい。ヌーソロジーは、この構造の中で人間の無意識が構造化されていると考えてる。時空上の一点(局所)でわたしたちが対象意識や自己意識を働かせることができるのも、この構造があるおかげだと考えるわけだ。
ヌーソロジー的に見るとゲージ対称性とは等化と中和が形作る関係そのもののように見える。等化は内部空間の次元を拡張していくが、中和はその拡張を無効にする。つまり、時空に戻す。結果、そこに時空と内部空間の差異が生じ、この差異を巡って意識が活動する。
中和と等化の間を取り持つ幾何学が直線(接線)と円環だと思うといい。精神を構成する円環e^iθの「θ」はθ(r, t)として時空(延長性)の関数となり、持続空間と延長時空の媒介者として働いている。ここにゲージ原理が働いている。
簡単に言い換えよう。今、目の前に本がある。昨日もこの本はこの場所にあった。この二つの知覚には時間的ズレがある。時間の経過は内部空間では時間発展と呼ばれ、U(1)回転として表すことができる。つまり、この二つの知覚は局所的U(1)回転によってズレているわけだ。
このズレを是正するのがゲージボゾン(例えば光子)が持った局所的対称性の働きだと思うといい。
じゃあ、このズレを是正するとはどういうことだろうか―ヌーソロジーの考え方だと単純な話になる。そのためには、今、この瞬間に、ここで、昨日の本を知覚できるようにすればいい。
もう分かるのではないかと思う。要するに、局所的U(1)対称性とは、わたしたちの意識が持つ「想起」のシステムを語っているに他ならない。
「想起」なのだから、それは当然、流れる時間と流れない時間の関係の中で可能になる。この相互作用を時空上で見たものもが、たとえば、光子と電子の相互作用と呼ばれたりしているわけだ。
―何度でも言うよ。素粒子は物質なんかじゃない。わたしたちの魂の骨組だ。
2月 18 2019
ハイデガー哲学とOCOT情報をミックスして語ってみる
ハイデガーが言ってることはOCOT情報とほとんど同じ。
まず、ハイデガーのいう脱自(非本来的な自己の外へと抜け出し存在を了解すること)はOCOT情報でいう「付帯質の内面の顕在化」に相当してる。
これは、いつも言ってるように「幅化している奥行きの下に潜む持続としての奥行きに根源的時間を見出すこと」を意味している。
このとき生まれる奥行きの力のことをOCOT情報は「形質」と呼んでる。
形質とは持続空間で活動する形相としての精神のこと。
形質が働き始めることによって、核質(物質概念)は中和されていく。
これは、ハイデガー的にいうなら、存在者の思考から存在の思考へと遷移していくということ。
存在の思考とは、OCOT情報の文脈からすれば複素空間認識が始まることによって、対象的思考の働きが減衰していくことを意味している。
数学でいう複素平面は「形質の対化」に相当している。
形質の対化が生まれると、そこから精神は形質の等化に向けて動きだす。
そして、この「形質の等化」が「カタチ」を作り出すと言う。
「形質の等化」とは、分かりやすく言うなら、奥行きが幅側へと捻れることを意味してる。この捩れは物理学的にはクォークのスピノルのSU(2)を意味してる。
SU(2)が持ったこの捩れが物の起源(核子)となってる。
このSU(2)から僕らが時間と空間と呼んでいるものが現れてくる。
つまり、SU(2) という運動によって、物と時空が、隠れと現れを同時に併せ持つようなかたちで作り出されてくるわけだ。
物を物自身の方から現れてくるとおりに、物自身の方から見えるようにする―これがハイデガーのいうエルアイグニス(性起)の数学的仕組みになっている。
この「現れ」と「隠れ」は決して断絶したものではなく、付帯質の内面から見れば、単純な同型性に基づいた連続体になっていて、かつ、この同型的な生成の循環は無限に反復していく。この真無限的な反復が物の多様性を生成していっている。
人間の意識はこうした精神の運動に対する反映として生み出されている。そのため、カタチをつくる方ではなく、カタチを対象として見る方向に持っていかされている。生成から追い出され、生成を対象側に見せられる位置に置かれているということだ。
こうした状態をOCOT情報は「形質の中和」と呼んでいる。要は、形質が働いていないということ。これが延長意識に当たると思っていい。時間と空間による幅支配の世界認識だ。
幅認識だと、当然のことながら、SU(2)を認識することができず、その下次元的投影であるSO(3)しか見えない。これは、非局所が局所へと落とされていることを意味するんだけど、持続において思考していないからこういうことになる。
ハイデガー的にいうなら、存在を見ず、存在者ばかり見ているということだね。そして、思考も存在者の域から出ない。
OCOT情報から見るなら、ハイデガーは正しいことを言ってる。
でも、ハイデガーの表現は晩年まで可能態のままで、現実態にはなっていない。
だから、「かろうじて神のごときものだけが我々を救いうる」なんてことを言ってしまう。
これはいかんよ。だから、神秘主義や信仰主義って揶揄されるわけだね。
※下左イラストは堀内亜紀さんの作品「大物主」をお借りしています。OCOTをキャラ化したときのイメージだよ^^
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ハイデガー関連 • 0 • Tags: OCOT情報, SU(2), ハイデガー