9月 5 2018
観察されるマクロ系と観察するミクロ系という発想を!!
物質の大元は何か。それは素粒子である。素粒子とは何か。それは波動関数である。波動関数とは何か。それは複素数の波である。複素数の波とは何か。それは複素共役を取れば、存在確率として解釈できる何かである―これが今のところ、物理学で分かっている物質の究極の姿。
物質の究極が確率なら、それが無数に集まってできたオレの世界だって確率にすぎないだろと、物理学発のニヒリズムを自分の人生に重ね合わせて人生自体ニヒリズム化する連中もいる。また、そうした空虚な実在感は社会の在り方にもボディーブローのようにダメージを与え続けている。意味の場の喪失。
けれども、「危機のあるところ、救いとなるものもまた育つ」。量子論は科学的知性に裏付けられているという意味では、歴史上展開されたいかなる形而上学よりも、最も真理に近い形而上学的書物ではないかと感じてる。問題はその行間を読み解く知性が人間側に不足しているということ。
では、どのような知性が不足しているのか。ここは、ハイデガーに倣って存在論的知性と言っていいと思う。ベルクソン=ドゥルーズに即して言うなら、「潜在的なもの=差異」の知性だ。
この知性とは何か―それは過去を存在として看取できている知性と言っていい。過去は過ぎ去って、現在にはもうないものとして片付けるのが人間の知性だが、この知性は過去の総体そのものとして、今「在る」。
この「在る」の重みの感覚を身体を始めとするすべての存在者に重ね合わせて感じ取らないと、量子論もまた真理として読むことはできない。なぜなら、存在するすべての事物はこの「在る」ことの中において生成し、その「在る」のむき出しの姿が量子そのものではないかと考えられるからだ。
たとえば、ある物理学者は次のように言う。
―量子の状態は観測されるミクロ系と、観測するマクロ系の間に位置するものであり、ミクロ系に備わっている物理的実体なんかではない。
彼はミクロ世界には物理的実体がないことを十分に承知している。つまり、すでに彼にとってはミクロ系は存在者の世界ではない。そこは、存在者の感覚を持ってしては絶対に入れない領域、つまり、絶対的差異の領域で「在る」と知っている。かつ、それが何かを考えることが物理学者の役割ではないことも。
ただ、彼はここで致命的な勘違いをしている。それは「観察されるミクロ系」と「観察するマクロ系」という表現の中に表れている。つまり、彼は最初からミクロ系(量子)を観察されるものとして対象化してしまっている。その先入観自体が彼がミクロ系から締め出される原因になっているとしたら。
要はすべてが逆なのだ。世界中のどの物理学者にも、観測されるものがマクロ系で、観測するものもがミクロ系だという発想がない。人間の身体であれ、脳であれ、それらは観測されるものである。観測しているものは一体どこにいるのか―それがミクロにいるという発想がないのだ。
奥行きを通してミクロの系へと侵入しよう。それさえできれば、ハイデガーのいう現存在としての人間は存在の只中に新しい原初として立つことができるようになる。それは量子の謎を解き、存在者の世界を覆っているニヒリズムの海を瞬く間に蒸発させていくことだろう―来たれ、救済の十字架。複素平面よ。
下写真 「デュシャンの量子化」ヌーソロジー作(笑)
9月 7 2018
「外に見えているものは内」を当たり前の感覚にしていくために
量子論を通じて超越論的なものの幾何学的構成を思考するということは、〈明晰で-混雑した〉ものの力を用いて、《理念》を〈判明で-曖昧な〉ものとして思考するということに等しい。これは経験的なものが存在を開示するに当たっての絶対条件ではないかと感じる。ヌーソロジーのアプローチがコレ。
この場合、〈明晰で-混雑した〉というのは、時空と内部空間を一緒くたに思考しているということに当たる。一方、〈判明で-曖昧な〉というのは、内部空間に限って言うならその構成は判明なものであるものの、延長認識からすればトポロジーとしてしか表現できないことを意味している。
もちろんトポロジー知覚が即存在の開示にあたるわけじゃないだろう。それはあくまで下地作業として考えるべき。現在のわたしたちが3次元を空間知覚のベースにして様々な意味の場を派生させているように、今度はその高次のトポスをベースにして、高次の意味の場を派生させていくということ。
量子構造の無意識構造への置き換えは、そのための基礎だということ。
構造と言っても、勘違いしていけないのは、これはズレ(対称性の破れ)からもたらされたものであるということ。だから、構造を見出すということは、ズレを見出すということであり、このズレの双方向を見出すことによって、構造はすべて消滅するはずだ。それが「光」を作り出しているものの正体だと思われる。
その境域をヌーソロジーは「真実の人間の精神」と呼んでいる。
〈明晰で-混雑した〉概念の代表格が粒子の運動量という概念。粒子の運動量は波動関数を位置xで微分し、-ihを掛ければ求められ、予想された確率通りにそれは計測される。いたって明晰な記述だ。しかし、そもそも粒子の運動量とは何なのか―これは逆に至って曖昧なものだ。
粒子は物体ではないのだから、実は運動などしていない。粒子に運動のイメージを与えること自体、存在を無理矢理、存在者の形式(時空的尺度)へと引きずり込んでいるようなものだ。エネルギーも同様。本来は、運動量もエネルギーも、純粋な内包、つまり、精神の力なのである。
量子の挙動は外の世界にあるものの理屈(古典論)に全く合わないのだから、それは外にあるものじゃないんだよ。ただ、それだけの話。それを、相も変わらず外にあるものとして考えようとするから、明晰だけれども、混雑したものになる(複雑化した数式等)。それは、外に見えている内なんだよ。
だから、当然、物質世界の全体性も実は外に見えている内ってことになる。シュタヌー本に書いた「物質とはノスから見たヌース」という内容もそういう意味。外がそのように見えてきたとき、忘却されていた「存在」が戻ってくるってわけだね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 量子論