9月 5 2014
純粋思考による複素2次元空間の彫塑
複素空間を構成する虚軸と実軸は、基本的には、それぞれ持続とイメージを作り出す働きを持っていると考えるといいと思います。つまり、イメージを貯蔵したり、産出しているものが数学の世界の中では複素空間として形式化されているということですね。
単なる虚軸や実軸にそんな力がなぜ入り込めるんだ?と考える人がほとんどかもしれませんが、「ありてあるもの」の力には起源などない、とまずは英断を下すことが大事です。そしてこの「ありつづけている」力が人間においては記憶やイメージの力として現れていると考えましょう。
普通は、こうした力は脳に還元され、複雑な有機物が構成する電気的なネットワークの中に生じるものだと考えられているわけですが、その考え方でも結局は量子脳理論のように虚軸と実軸からなる複素空間へと話は還元されざるを得ません。
4次元時空は事物が客観的にあるとされる場所ですが、時空は反転すると二つの方向に分割されます。この分割が自己と他者におけるそれぞれの主観的空間です。主観的空間にあるのは事物ではなく、記憶とイメージだということが分かります。それをとりあえず、虚軸と実軸に置いてみようというわけです。
このことは同時に、主観を客観から差異化させるための数学的形式と考えることもできます。同一性から抜け出す最初の契機です。こうした形式化の力はバカにできなくて、空間を二重化させてみることを容易にしてきます。
一つは社会的個が言語とともに生きる延長的時間の空間であり、もう一つは精神的個が持続とともに生きる根源的時間の空間です。後者には時間はありません。記憶の貯蔵庫のようなものですから。
複素空間というのは必ず回転しています。しかし、回転というのは時空から見たときの状態であって、複素空間自体は純粋な球としてあるだけです。このことから表象の生成は時空と複素空間の恊働によって為されているということが分かります。一瞬と永遠の接点。それが表象(この場合、対象の見え)です。
ですから、複素空間そのものについて思考するためには表象から離れなくてはなりません。表象には頼らない思考、つまり、純粋思考が必要になるのです。
この純粋思考は、持続そのものが自らの身体性をどのように形成していくのか、それを自覚していく思考になります。言い換えれば、魂、自らが、自身の姿を反省し、それを彫塑していくということです。
この彫塑の4段階のプロセスを経て、魂は彼岸の魂と出会い。そこに結び目を作ります。自他の内的結合が行われている場所です。この結合を外に広げることによって、そこに自他が一体となった開けの場所が作られます。それが時間と空間です。内的結合を果たした魂はそこでは「言葉」として出現してきます。
純粋思考によるこの彫塑の様子をアニメーションにしました。まだまだ説明不足ですが、こんな感じです。ご参考までに。(Visual:Hiroyuki Fukuda /Sound:Hideaki Takahashi)
12月 9 2014
ヌーソロジーの量子論解釈
11月のレクチャー資料done。量子論と意識の関係がかなりコンパクトに整理できた感じ。だけど、この内容、果たして4時間で話せるのかどうかチト不安。。
まずは簡単に量子力学の世界がどんな世界なのかをイメージさせる話に始まって、波動関数や、微分演算子の描像にトライする。こんなことは誰もやったことがない。だから、それが革命的な試みなのか、最大のトンデモなのかは、後世の人たちの判断に任せるしかない。
僕自身の現在の量子論に関する見解はおおむね、次のようなものだ。
主客未分離の状態から主体と客体がどのように出現してくるのか。量子論はその仕組みをすでに構造として把握している。でも、その構造に何の意味付けもなされていないために、単なる数学的形式の表現のみにとどまっている。それもこれも、物理学的思考が量子をあくまでも客体的対象として見なすクセから脱却できていないためだ。時間と空間をベースにして量子を記述すると、必ずこのクセの術中にはまってしまう。というのも、時間と空間が主客分離の本質的な要因となっているからだ。僕のなかの存在感覚では、時間が客観性を作り、空間が主観をまさぐっている。
こうしたクセを矯正していくためのポイントはただ一つだけのように思う。複素空間を構成する虚軸と実軸を単なる数学的観念の産物と捉えずに、そこに心理的に当必然的と思われる意味を直観することだ。それが、いつも言っている3次元空間の中で同一化してしまっている奥行きと幅の差異化に通じている。奥行きは虚軸、幅は実軸。もちろん、この虚軸には〈見るもの=持続持続〉、実軸には〈見られるもの=イメージ〉の意味が含意されている。世界には自己と他者がいるので、この奥行きと幅で構成される複素平面は2枚設定されることになり、知覚野は複素2次元空間へと変貌する。
こうした空間の形式を世界にセットした瞬間に、わたしたちの空間は一気にアルケーとしての無限小世界へとワープする。見ている世界はもう時空ではなく、世界の発生論的境位、つまり、現象学的始源となるということだ。世界は今から創造されていく——この反転の空間認識が物理学を真の自然学へと変容させることになると思っている。カバラにあるツィムツームを、具体的な思考の結実として反-現実化するためには、物理学がその根幹になければにっちもさっもいかないのだ。
わたしの精神は明確にある痕跡としての線を辿っているのであり、わたしの思考もまた、その線に沿って振動している。その線を思考自体が見出さないかぎり、思考はつねに無意識を茫洋としたイメージでしか追うことができない。エクステンドも大事。クラルテも大事。しかし、エクステンドはクラルテがあってこそ、ディオニソスの酩酊から、華麗なるヌースへの変身を遂げることができるのだと思っている。そこには生成を生成たらしめていく調和のハルモニアがある。
この「存在すること」から「生成すること」への不連続的連続とも呼べるような接続。ここに降り立つのが光子〈フォトン〉だと思っている。OCOT情報は「存在と生成の等化」という意味で、この光子のことを「真実の人間の精神」と呼んでいる。OCOTに拠れば、光子とは存在の精神を反転させ、それ自体に進化をもたらす力のことである。世界を存在と生成に二分割した黄金比そのものの力と言っていいだろう。photonの接頭語phは黄金比φ=phyからの派生でもあるのだ。
人間は無意識の発展の歴史に伴って、時間に対する感じ方を変えてきた。ドゥルーズの時間論を参照すれば、現代とは第三の時間が支配的な時代である。第三の時間とは、たががはずれた時間、発狂した時間とも呼ばれ、単に物差しのように直線化してしまった時間のことを意味している。こうした時間の中では、もはや、人間は時間として生きる存在ではなく、時間の中で生きる存在となり、時間は現実としての人間の生からかけ離れた生態を持つようになる。
ドゥルーズにとって、このことは朗報のようだ。この直線化した無限の時間は、永遠回帰の前触れでもあり、この時間の先には別の円環へと繋がる契機があることをドゥルーズは示唆している。時間はそのとき、その頑な直線性を無限遠点の到来とともに円環に丸めこみ、世界に根源的時間の出来を用意するのかもしれない。ヌーソロジーはそこに関わっているという自覚がある。
しかし、ドゥルーズがいう第三の時間の極限には単なる円環化や捻れだけではなく、分岐があるということ。それを明言しておきたい。数学的には直線的時間を象徴する「−1」という時間の計量が二本の「i」(虚軸)へと分離していくということ。それによって、外在世界はすべて始源から見た風景へと塗り替えられ、父に支配されていた物質は、母なる物質マリア・マテリアへの変容を見せていくのだと思う。
何はともあれ、この母なる物質世界への侵入が、ヌーソロジーの量子論解釈から始まる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ツィムツーム, ドゥルーズ, 複素2次元空間, 量子論