7月 8 2014
ポジ空間とネガ空間(人間の内面と外面)
今日はヌーソロジーの基本的な部分の話をしますね。
空間にはネガとポジの二つの形式が存在しています。問題はネガの方がまだ僕らの認識に上がってきていないということなんですね。哲学者はこのネガ空間のことを指して「差異」と呼んでますし、宗教者は「霊魂」と名付け、物理学者は「素粒子」として思考している。
このネガ空間が見出せないために、同じものをそれぞれ違う名前で呼んで、話がすごい難しいことになってしまっている。それが現在の僕らの知の状況なんだと思っています。
このように既存の認識では全く別々のものとして捉えられているものたちを「反転認識」というそれこそ雷鳴の一撃によって一つの同一のものとして見なせるような認識の在り方を作る、というのが人間の意識進化の具体的なビジョンの一つだと考えています。
反転が決行されると、空間そのものに差異が生まれます。反転してないものと反転したものとの差異です。そこから空間はこの差異を打ち消そうとする運動を開始します。両者の対称性を形作ろうとするわけですね。しかし、結果的にこの運動も反作用を生み出し、またそこに新たな差異を作り出してくる。。こうして絶えることのない差異化の運動が延々と続いていくことになるのですが、これが「創造」というものだと考えています。
人間にはまだ認識できていないネガの空間世界においては、こうした差異化の連続的なシステムが高次元の空間構造としてセットされています。それがあるから僕らには意識が生まれている。哲学の世界でいうところのアプリオリですね。シュタイナー風に言えば「体」と「霊」をつなぐ部分としての「魂」に当たります。ドゥルーズなんかはこうした領域を「潜在的なもの」と呼びます。
この「潜在的なもの」に欠かせない条件が「持続」です。エーテル体が持った働きと言っていいでしょう。時間においては「体(物質世界)」と「霊」の関係は現在(継起する時間)と持続(永遠)の関係として現れてきますが、「魂」は、この「体」と「霊」の間を取り持つものとして時間の流れを感じ取っています。
さて、ポジの空間には継起する時間しかありません。持続の働きを持っているのがネガの空間です。ですから、反転認識を持ってネガの空間を目の前に顕現させるということは持続の息づく場をカタチとして見出すということを意味します。そして、そこに持続が根付いているからには、その場こそが主体本来の場所と考えられなくてはなりません。
ここではポジ空間とネガ空間の相互反転が起こっている最も基本的な場所を図で示しておきましょうね。下図で赤と青の矢印をそれぞれ半径として回転させて作り出される二つの球空間がポジ空間とネガ空間の関係になると考えて下さい。
イメージできるとすぐに分かってくるのではないかと思いますが、普段の僕らが3次元空間と呼んでいるものはモノの手前に自分を感じることによって作り出されていますから、ネガ空間の方が全く意識に上がってきていないのが分かります。
スピ系の人たちが「世界とはわたし自身にほかならなかったのだ!! 」と感じるときの感覚は、実はこのネガ空間の存在を直観しているからだと言っていいでしょう。ネガ空間においては、見られているものは見るものと同じになっていると考えて下さい(とりあえず)。
このような二つの相互反転した空間が人間の認識に幾何学的に浮上してくることをOCOT情報では「対化の顕在化」と言っています。そして、この顕在化をスタートラインにして、今まで無意識の底に沈んでいた「魂」の世界が、連続的な差異のシステムとして明確な次元構造として浮上してきます。この次元構造を指し示す概念がヌーソロジーのいう「次元観察子」というヤツなんですね。
7月 31 2017
【ヌースの基本概念】人間の外面・内面と複素空間
自他の間で同一化した3次元空間を二つに分割する―それがこの人間の外面と内面という概念が果たす役割です。人間の外面とは「見ることが起きている空間」、一方の人間の内面とは「見られること」が起きている空間と覚えておくといいと思います(下図上参照)。
普段、僕らは「物の手前に自分がいる」という感覚で空間を認識していますから、そのときの空間は「人間の内面」の空間になります。「物の手前に自分がいる」という感じ方は鏡像(他人から見られた自分)だということですね。
「物の手前に自分がいる」と自分の位置を概念化した時点で、物と自分は別々のものとして分離してしまいます。主客の分離感覚はこのように人間の内面が作り出してきます。目が物を見ているとか、外界からの光を目が捉えている、などいった物言いは、すべてこの人間の内面の意識をベースにしたものと考えるといいでしょう。
一方、人間の外面の空間の方は、あるがまま、見えるがままの空間です。ここには世界を見ている目、顔、頭などといった認識はありません。「対象の手前」の認識がないのですから当たり前です。ヌースが「ヘッドレスになれ」といつもアジってるのも、この人間の外面の空間を発見せよ、という意味で言っています。
このあたりの話は哲学の世界では大森荘蔵が「面体分岐」という言葉で詳しく説明していますが、あまり一般には浸透していません。大森荘蔵のいう「面」が人間の外面に当たり、「体」が人間の内面に当たります。興味がある人は調べてみて下さい。
さて、この人間の内面と外面という概念ですが、下図上で見ると互いに180度の関係で真反対を向いているように見えますが、実際の意識の運動を通して見ると、互いに90度の直交関係にあります。どういうことかと言うと、意識が物の手前を認識するときは、下図下で示すように、世界を見る眼差し自体が90度、横側に回りこんでいるのです。
図をよく見れば、奥行き自体が左側に回って、奥行きだったところが幅化する様子がよく分かるのではないかと思います。本来、見る空間は大森荘蔵が言うように潰された面なのですが、持続の中で奥行きが横に回り込み、あたかも奥行きに幅があるかのように想像されています。
この図のように、奥行きを虚軸、幅を実軸とおくと、この人間の内面と外面を併せ持った空間は数学には複素空間として対応させることが可能になってきます。
たまたまシオリちゃんの言葉がリツイートされてきたので、ついでに書いておくと、この「見ること」が起こっている空間は幅の空間ではなく「奥行き」ですから潰れています(数学的には射影)。ですから、3次元認識から言うと「物の中」にあります。見ることは、ほんとは物の中で起こってるんです。
ほんとうのみてるってのは、
中からみてるという意味で
目でみてるわけじゃないの。
@khsiorim7nsnkh4 2016年8月21日
実空間と虚空間が反転しているという意味、さらには、そのような反転関係が複素空間では実軸と虚軸の直交関係として表現される、ということが少しはイメージできるようになってきたのではないでしょうか。
この複素平面がグルグルと回転している状態が物理学が波動関数ψ(x,t)と呼んでいるものだと考えるといいと思います。わたしたちの意識は人間の内面と外面の間で振動しているんですね。
そして、この振動が、わたしたちの広大な内在性への入り口になっています。
人類の根底的な意識変動がこれからほんとに始まってきますよ。柔軟な頭で対応していきましょう^^
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: もののケのしおり, 内面と外面, 大森荘蔵, 奥行き, 複素空間