8月 31 2018
果たして「構造」は舞い降りるのか―
20年ほど昔、『シリウス革命』という本を書いた。
いまどき革命などと言うと笑われるのオチだが、もちろん「シリウス」革命なのだから、この本で書いた革命は政治的なものでも社会的なものでもない。天上的なものだ。天上の革命が起こらない限り、地上の革命もやってこない。そういう趣旨の本だ。
ここでいう「シリウス」とは、物質的な意味においては、あのお馴染みの夜空で一番明るく輝いている恒星のことでもあるが、神話的には「〈もの〉が開始された場所性」のことでもある。人間の思考に、絶えず形而上学を要請してきた発信源の名称と言ってもいいだろう。
西洋のオカルティズムの伝統では「太陽の背後の隠れた太陽」とも呼ばれる。太陽がものを照らし出すことによって現象が浮き立つということの背後には、このシリウスの意図が働いている。つまり、太陽を太陽として方向付けている力の淵源が世界には眠っていて、それを神話はシリウスに見ていたわけだ。
シリウスは存在のシステムの転回力のようなものだ。古代エジプト人はそれを女神イシスに重ね合わせていた。女神なわけだから、これは豊饒なる生成の神と言ってもいい。ハイデガーが「最後の神」の到来と呼ぶものも、神秘学的には、このシリウスの陽の降臨にイメージが重なる。
ラカンは「革命とは構造が街路に舞い降りることだ」と言っていたが、おそらく、ラカンは人間が用いる言語と意味の活動が空間に折り重なってあると強く感じ取っていた。「意識の中」などといった漠然とした感覚ではなく、今、目の前の空間上に言葉と意味がリアルに振動し合う場所がある……。
彼もシリウス熱にやられていたわけだ(笑)。ハイデガーのいう「存在」を知覚と言葉の構造の中に追い求めて、ラカンは晩年にはトポロジーに取り憑かれた。しかし、そこからは誰もついていけていない。ラカンのトポロジーを発展させ、存在に結びつけようとしたのはガタリぐらいだろうか。
ドゥルーズはこのシリウスの領域を「差異」と呼んだ。彼の差異に対する定義は「所与を与える当のもの」というように、至って簡明なものだ。受け取るものから、与えるものへ―カバラでいうベヒナ・ギメル(Behina Gimel)。受け取りを授与の形にする方法の発見。「存在」の行為を模倣することの決意。
世界を授与性で満たすこと。これが生成が持った衝動であり、女神イシスの役割でもある。受け取りの空間から授け与えの空間への移行。これがハイデガーのいう「存在」の開示の意味でもある。
ハイデガー=ドゥルーズの哲学が一貫して表象=再現前化の批判を行うのは、表象化が受け取ることしか望んでいない無意識の欲望の形式だからだ。受け取りは受け取りを当たり前とし、その「当たり前」が表象化されたものが自我なのだ。だから自我を超えるためには表象化を脱する意識の構成力が必要なのだ。
それがラカン(構造主義者たち)のいう「構造」だと考えるといい。構造が街路のみならず、野原や、海辺や、一人一人の部屋の中へと舞い降りるなら、世界は何か別ものへと変質していきはしまいか。それこそ、ペンテコステ(聖霊降臨)の風景と呼びたいところだが……。
受け取りは幅(延長)において行われ、授与は奥行き(持続)において行われる。この単純明解な反転性に、わたしたちはそろそろ気づいてもいい頃ではないか。奥行きが作る持続構造が幅が作る延長世界に舞い降りたとき、世界は再び転回を開始する。それがハイデガーが幻視した「性起」に他ならない。
11月 26 2018
ヌーソロジーと精神分析
今日は精神分析とヌーソロジーの関連について少し。
「人間の無意識構造=素粒子の構造」という示唆は、最初にOCOT情報が与えてきたものですが、と言って、その構造をOCOTが具体的に教示してくれたわけではありません。第一、こんな話をまともに信じれるわけがありません。
そこで「なぜ、OCOTはこんなトンデモないことを言うのか」という疑問からヌーソロジーの思考は始まりました。つまり、人間の無意識構造を素粒子と重ね合わせて思考できる思考があるとすれば、その思考の実現のために果たしてどのような条件が必要なのか、その条件について詰めていったわけです。
素粒子構造を調べるためには物理学をコツコツと学んでいくしかありませんが、問題は無意識構造の方です。意識に関しては確かな理論というのはない。そこで、最初はフロイトの理論などを調べていきましたが、フロイトにはそれほど明確な構造論はありません。
「これは使える!」という閃きが最初に起こったのは、ラカンのシェーマLという図式を見たときでした。ラカンという人はフロイトの理論をベースにして、そこに言語構造を重ね合わせ、独自の精神分析の理論を体系化した人物です。
シェーマLという図式はラカン理論の基礎になるもので、下図上のようなものです。この図に示されたSとaの関係は簡単に言えば、自分のことを「わたし」と呼んでいるものと、「わたし」と呼ばれているものの関係に当たります。精神分析でいう自我(想像的自我)とは「わたし」と呼ばれているものの方です。
シェーマLはこうした対関係を二組、自己サイドと他者サイドの間に想定することによって組み立てられています。これによって、ラカンは言葉の世界とイメージの世界の関係性が自他間でどのような関係になっているかを思考し、その全体的な流動の中に真の主体を確立させないといけないと考えたわけです。
ちょっとだけ解説しておくと、aとa’を結ぶ想像的関係がイメージ相互の関係が生じるところ。SとAを結ぶ無意識と書かれてある関係が言語的関係(ラカンはランガージュ(言語)の壁という言い方をします)が生じるところに当たります。
このSとaの関係を垂質の対化(Ψ5とΨ6/空間的には前と後ろの関係)として当たりをつけることによって、まずはラカン理論が持った双対性と素粒子の双対性に深い関連性を感じたわけです。あとは、このSとaの空間イメージと、素粒子のスピン空間のイメージを一致させる描像が作り出せれば、OCOT情報がトンデモじゃないことが分かってきます。
その他、いつもお話ししているベルクソンやドゥルーズの哲学的な理論絡みなども関係してきますが、そうしたいろいろな理論を総合させながら、その結果として浮かび上がってきたのがケイブコンパスのフィギュレーションだと思って下さい。ケイブコンパスでは、このシェーマLのSはエス=ψ5、aは自我=ψ6で示しています。Aとa’はψ*5とψ*6に当たり、このケイブコンパスのウラに当たります(下図下参照)。
さて、フロイトの有名な言葉に「エスがあったところに自我をあらしめよ」というのがあります。これは精神分析の基本理念です。当然のことながら、ラカンもそれを引き継いでいます。
精神分析の考え方では、自我は疎外の中に生じている一種のパラノイアです。ラカンなんかは自我を確信することは狂気であるとまで言います。常識人は「ラカンよ、オマエの方が狂気だ」と言いたくなるところですが、資本主義社会を見ていると、確かに人間は狂っているんじゃないかと思いたくもなります。
精神分析は、わたしたちは本当の自分をほぼ全員が見失っていると言ってるわけです。つまり、精神分析というのは精神に支障をきたし正常な社会生活が送れなくなった人のための治療法というよりも、ある意味、本当の自己を奪回するための霊性運動のようなものと考えていいと思います。
ヌーソロジーは精神分析がやろうとしたことを空間認識の是正によってやろうとしているという言い方もできます。つまり、パラノイア化してしまっている「自我-エス」の力関係を正しい空間知覚によって正常な状態に戻す、ということです。
つまり、「世界は自分の外部にある」とか、「小さなものが集まって大きなものができている」とか、「世界は物質でできている」とか、これらはパラノイア化した自我が作り出した歪んだ世界の見方だということですね。本来の宇宙の在り方からすれば、まともじゃないんですよ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ケイブコンパス, フロイト, ラカン