8月 3 2010
カバラは果たして信用できるのか?——その4
——前回よりのつづき
さて、ここからがヌーソロジー的には本題である。
僕がルーリアに入れ込んでいる理由は、前にも言ったようにここに紹介したルーリアの考え方が極めてOCOT情報に酷似していると考えているからだ。まさに生成を育む容器は神が放つ強烈な逆光のためにすべてが陽炎のように虚ろに見えなくさせられてしまっている。その逆光の中で息絶え絶えになっている順光のかけらを拾い集め、破壊された容器を修復し、生命の樹全体の中を流動する力のすべてを復元する——それがルーリアのいう創造の完成というものだ。
「神が世界を創造する」というこの聞き慣れてはいるもののイメージ不能なクリシェは一体、どのような状況を意味しているのか。そして、そのような創造の事件が西暦2013年に再び回帰してくるというOCOT情報の真意とは一体なんなのか――僕なりのこの新しく始まるとされる〈創造〉に対するビジョンをみんなに伝えるためには現代思想の状況などいろいろと七面倒臭い話をしなくてはならないのだが、ここではそのポイントだけを簡単に示して、ルーリア理論とヌーソロジーの親近性、並びに、その両者の間にある決定的な差異を明記しておきたいと思う。ちょっと長くなるかも。。
ユダヤ教は言うまでもなく一神教である。一神教の神とは別名一者とも呼ばれるが、この一者とは別に一つのものの存在を意味するわけではないし、一つのものという属性でもない。それは絶対に言い表し得ないものということの言い換えであり一種の超越論的シニフィアンである。これはハイデガー風に言うならば、存在者に対する存在に対応する。存在者(あるもの)と存在(あること)の差異——ハイデガーは鬼の首でも取ったかのようにこの差異の思考を提示して見せたが、正統的な神学の思考(被造物の中に神性を見るということ)においては、この〈多なるもの=存在者〉と〈一なるもの=存在〉の関係は互いに相補的でありかつ同時的なものとされる。まぁ、ハイデガーの提示は神学的には別に新しいものでもなんでもなかったということだ。
かつて仏教徒だった僕としては、ここで法華経が説く多宝如来(多なるもの)と釈迦如来(一なるもの)とが対座し合うあの虚空会の儀式なんかをすぐにイメージしてしまうのだが、カバラの場合、この存在者と存在の差異の関係は生命の樹におけるマルクトとケテルという最下位と最上位のセフィラーの関係性の中に表されている。ケテルに座するアイン・ソフ・アウル(存在の無限光)としての神はマルクトという神の花嫁を通してその臨在(シェキナー)を可能にし、自身を被造物として開示させる。マルクトは物質的存在者の世界であり、ここにはそれら存在者の多様性がそれこそグノーシス主義にいう多産なる女性性として表されている。だから、例えば今君の目の前に一つの薔薇の花がその可憐な姿を見せているとすれば、それ自身がすでに一者をなしており、一者によって統合されて存在者たらしめられているということを意味する。何と美しい思考ではないか。
世界にたった一つだけのこの薔薇の花と言うときの「一つ」とはここでは一個、二個という数詞の役割というよりもその薔薇の唯一無二性、此のもの性をダイレクトに表現しているということだ。そして、このかけがえないの唯一無二性こそがまさに一者という一なるもの=神の存在者的顕現でもあるということなのである。もちろん、このことは君という個体そのものの存在についても言える。その場合、君はそうしたかけがえのない存在者の束として存在している世界でたった一つのかけがえのない存在になっているはずだろうし、もっと言えば世界そのものになっているはずである。その唯一無二性、此のもの性もまた一者に由来するものと言える。
さて、話を現代哲学に移そう。20世紀の思想が最終的に辿り着いた哲学的問題は実はこの唯一無二性を裏で支えている同一性の問題だったと言える。この薔薇がこの薔薇であるということは、言い換えれば、この薔薇はこの薔薇以外の何ものでもないという意味と同意であり、ここにはこの薔薇をこの薔薇たらしめている頑な同一性が存在しているということになる。そしてそのような同一性の起源は、今までの文脈から言えば、当然のことながら他ならぬ神という一者の同一性に由来することになる。また、薔薇を始めとするそれら存在者を束ねて世界の構成を行っている君自身もそれら数々のかけがえのなさによって支えられているかけがえのない主体ならば、君という主体もまた一者が一者であるということの同一性によって背後から支えられていることになる。ここに生じている自我の同一性が思考の限界点としてのフッサールが示した超越論的自我と一者たる神の結節点と考えていい。つまり、哲学が展開してきた形而上学のシステムというのは神は神以外の何ものでもないという強固な同一性によって超越論的主体の場で閉じる運命を持っているというわけだ。もちろん、ここでいう超越論的主体というのは人間の自我の本質のことであり、僕らが日頃わたしや僕と呼んでいるものの根底に潜む魂の実質のことである。
哲学の世界で、この同一性の乗り越えを最初に企図したのがハイデガーだ(と思う)。ハイデガーはフッサールの限界点を初めから見抜いていた。だからこそ、彼は彼の基礎的存在論でいきなり存在とは何かを問題として提出してくる。ハイデガーはフッサールのようにアプリオリな超越論的主体の構成回路などはもう問題にしてはいない。なぜならそうしたものとてまだ存在者の枠を出ていないからだ。彼は存在者ではなく存在そのもの、つまり、前に挙げた一者そのもの(神)を射程とする哲学的領野を開こうとする。この時点に至って、現代哲学は否定神学的なシステムへと移項し神秘主義的な思考との対面を余儀なくされる。つまりは、多くの神秘家たちが言うように、いかなる言語的置き換えも不可能となるような主体に穿たれた穴の中へと問題の地平が遷移してくるということだ。
——つづく
8月 6 2010
カバラは果たして信用できるのか?——その6
前回よりのつづき――
現代思想はと言えば、このハイデガーの前期の思考の場所でいまだに右往左往しているようにも思える。それはまさにハイデガーが仕掛けた現存在の二重襞による呪縛のためだろう。現代思想が陥ったこの思考の停滞は人類が資本主義そのものを乗り越えるための次世代の世界ビジョンを何一つ提供できていないことにも如実に現れている。資本主義を駆動している力の源泉はフロイト的に言えば快感原則にあるが、この快感原則はラカンによればシニフィアン(記号=欲動)とシニフィエ(目的=意味)とを結びつける規則(超越論的シニフェ)であり、その体制下で生産されるすべてのシニフィアンはそれに対応するシニフェへと必ず送り返される運命にあるとされる。このことはアッシャー圏の特異点たるティファレトに穿たれた穴が快感原則そのものによって塞がれていることを意味している。このティファレトは確かにイェッェラーという語り得ぬもの=異界に接してはいるものの、その異界に何か名が与えられた瞬間にそれは再びアッシャー圏へと回収され、語り得るもの=意味、目的として回帰してくるというわけだ。つまりはアッシャー圏の内部を流動する欲望の流れは常にティファレトの上位へと出ることを欲望しているのだが、その欲望自体が主体を構成する精神分析的な言語システムの網の目に絡み取られ、再び内部へと還元され、脱出口のない無底の循環を繰り返しているという筋書きである。
こうしてヌーソロジーというアッシャー圏の外部を目指す思考の運動が出てきたとしても、それはこうして半田広宣という主体の語りによって言語化され、そこにある一定の意味が付与され、一つのイデオロギーとなって、さらには貨幣へと換算され、資本主義の体制をより強固なものにしていく。まさにその構造は浅田彰が『構造と力』の中で示したクラインの瓶のように、外部への開きが結局はまた内部へと回帰してくるような閉空間の構成を取っているのである(ヌーソロジーではこの閉空間は7次元球面のトポロジーを持つと考えている)。こうした欲望回路の在り方は1920年代にすでにM・デュシャンが『大ガラス』の中で独身者のオナニーマシンとしてエロティックに揶揄していたものでもあるのだが、あれから猶に90年を経過しようとする現在でも、この閉回路はますます勢力を増すばかりで、いっこうに衰退する兆しを見せない。果たして、この気も狂わんばかりの資本主義回路のハムスターホイールから抜け出る方法論などというものが存在し得るのだろうか――一つだけ言えることは、もしそのような方途が存在するとすれば、それはもはや言語的なスタイルを取るものではないということだろう。現代思想の状況が相も変わらず言語的な観念の同一性の中で終始し、些末なジャーゴンで支配されている現状を見れば、実はラカンが登場した時点で、いやヴィトゲンシュタイン当たりが登場した時点ですでに哲学は終わっている言える。事実、今の哲学は諸学の王とは到底呼べない位置にまで凋落し、科学哲学や政治哲学という名が示す通り、科学や政治の太鼓持ちに成り果てているのが現状だ。
では、言語の一体何が問題なのだろう。それは再三、言ってきたように、言語の背景に厳然と横たわっている同一性である。AはAでなければならないとする同一性。この約束事がなければ言語は言語としての体制を保持することができない。この同一性はカバラ的に言えば一者たる神自身の同一性によって支えられているものであり、こうした支配の下ではまさにすべての言語は固有名はおろか一般名詞に至るまで神名として機能していることになる。つまりは、わたしたちが用いる言語の一字一句に至るまであの「Y-H-W-H」の四文字がMade in Godの証として署名されているのである。
であるならば、この強制力から逃れるための方法はおそらく一つしかない。それはケテルの玉座に座する神の殺害を試みることだ。そして、その囚われの身となっている花嫁たるマルクトに性転換手術を施し、マルクト自体を一者たるアインに変身させるしかない。それはニーチェやハイデガーが取ろうとしたブラトニズムの逆転をこの生命の樹にもダイレクトに導入するということでもある。マルクトをケテルに見立て、被造物の世界自体を無(アイン)と見なす視座を作り出すこと。これがこのブログ記事の冒頭で紹介した「カバリズムの逆転」という発想だ。ヌーソロジーのOCOT情報の解読はすべてこの視点で行われている。だからヌーソロジーが現実の社会にどうコミットするかだとか、ヌーソロジーが人生の役にどう役立つなのかといった同一性が支配する内世界的な問い立ては、ヌーソロジーの思考の中においてはあまり意味を為さない。僕が常々、ヌーソロジーとは全く別の世界を内在野の中に構築することを目的とするものであると言ってるのも、思考背景にこうした絶対的差異の線引きをしているからである。つまり、ヌーソロジーはこの世とは何も関係を持たない死者の思考なのである。
死者の思考。反転した世界。反転した生命の樹——。
逆転したカバリズムの視座においては、すでにおのおのの存在者を神として見なさなければならないということ。おのおのの存在者が神であるならば、どの一つの存在者をとっても、それらは一切が無(アイン)であるということ。そして、存在者が神であるならば、一つの存在者自身は世界を創造していく力能をすでに所持しているということ。こうした思考を以て初めて、存在者から立ち上がってくる光は一者=神から流出する光へと相転移を起こし、そこに新たな創造空間を切り開いていくことができるのだ。「光あれ!」という宇宙開闢の号令はもはやヤハウエの声ではない。その号令は被造物である存在者によって今こそ発せられなければならない。同様にまたユダヤ神秘主義が受け継いできた生命の樹ももはや生命の樹ではあり得ない。それは知識の樹による生命の樹の隠蔽である。この知識の樹を転倒させること。人間こそが存在の根であるという正立像を奪回すること。魂の上昇とは無からの創造行為をおいてほかにあり得ないのだ。
——つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カバラ関連 • 1 • Tags: カバラ, ニーチェ, ハイデガー, フロイト, ユダヤ, ラカン, 生命の樹, 資本主義