8月 28 2015
「ビックバンの描像はウソだから、信じちゃダメだよ」とヌーソロジーがいう理由
空間と時間の差異について考えるときは次のようなイメージをベースにするといいと思うよ。物体と物体を繋いでいる線は空間。物体と観測者をつないでいる線は時間。もちろん、観測者をただの物体として見たならば、それは空間。何が言いたいのかというと観測者が4次元の出所になっているということ。
これは何を意味しているかと言うとね。3次元を観測できるような観察位置は3次元の内部にはない、ということなんだね。
さて、問題はここから。「観測」と言っても自己と他者では観測の在り方が全く違っていることに注意しないといけない。他者-物体の観測線は延長として見えるけど、自己-物体の観測線は点にしか見えないよね。これが延長的時間と持続的時間の差異を作っていると考えてみるといいよ。
「世界を客観的に見る」ということは、自己の観察線を他者に重ね合わせて見ることを意味するわけだけど、ここで、実は観察線が二重化しているんだよね。これは数学的に言うと、虚×虚=負という事態が起こっていることを意味している。つまり、仮想的な客観視線は負の空間を作り出してしまうんだね。
これが持続を延長的なものとして繰り広げ、そこに時間(負の空間)が発生するという仕組みになっているんだ。
だから、時空(客観意識)発生の仕組みは外部的なものというよりは、自己と他者における間身体性とでも言うのかな、つまり内在的な場所の絡み合いの中で起こっているということなんだ。
これからの時代は、時間と空間を自分とは関係ない外の世界と考えちゃダメだよ。自分の内部の中にある一部として考えないと。そういう方向で思考していくと、時間と空間を包摂した永遠としての自分が目を覚ましてくるのが分かってくるよ。
こうした思考はもう「わたしの思考」ではなくて、「もの自体」の思考と呼んでいいものなんだげとね。というのも、この思考線自体が素粒子だから。そこでは、思考するものと思考されるものの一致が起きているということ。イデアだね。
ヌーソロジーが「物理学が考えるビッグバンの描像はほとんど意味を為さない」「そんなの信じちゃダメだよ」と言っているのは、物理学が内在性を全く考慮していないからなんだよね。
内在性を考慮していないということは、生命を持ち合わせていないということだよ。物理学が内在性を含み持ったら、それこそ、ほんとうの宇宙的知識がビッグバンを起こすだろうね。そろそろ、僕たちもその場所に向かわないと。
9月 21 2016
絶対的中心
「存在」それ自身はどのようにして分化=異化し、存在者となるのか。これは言葉を変えれば、非局所としての精神はいかにして物質として局所化するのか、とも言い換えていいだろう。ドゥルーズはこれを”魔神の跳躍”と呼んだ。
ドゥルーズの表現を借りればそれは次のようなものだ。―遊牧的(ノマド)な配分が、表象=再現前化の定住的な諸構造の中に忍び込ませる壊乱的なトラブル―そう、魔神は神々の作業の隙間に入り込み、生成の秩序をごたまぜにし、人間の思考に催眠術をかけるのだ。
現在、科学者たちがイメージしている物質的宇宙観(ビッグバン理論や進化論)はその意味で言うなら、この魔神の意のままに操られた夢遊病者が見ている夢のようなものと言っていいだろう。
垂直的な世界が水平的な世界へとごたまぜになって影を作り出す。わたしたちの精神の起源が存在する世界と時空に散在する物質世界はまさにそのような関係にある。
星と血液は鉄の精神によって結ばれている。太陽と植物はマグネシウムの精神によって結ばれている。DNAと言語はリンの精神によって結ばれている。こうした結びの風景の中に立ち入らせないようにしているのが魔神が作り出している直線的な跳躍なのだ。
わたしたちは空間に一つの絶対的中心を見出さなくてはならない。そして、その中心において思考されているものを見出さなくてはならない。存在はその中心から成長していく多層な球としてその内部に高次の幾何学を張り巡らしている。
神々の空間への侵入は、この絶対的中心の発見から開始されるのだ。
※下写真はトーラス氏が展開しているBABYMENBOTALよりお借りしました。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, ビッグバン