9月 2 2014
今、なぜ、複素数なのか——
S博士による「ヌーソロジー理解のための数学教室」は最終的にヌーソロジーを学ぼうとしている皆さんにSU(2)[エスユーツーと読みます]という群の理解をできるだけ正確にしてもらおうという意図で企画したレクチャーです。SU(2)というのは群論という数学の分野に登場する概念で、複素2次元空間における回転群とされているもののことです。複素2次元空間とは互いに直交する2本の実軸と2本の虚軸によって構成される4次元空間のことと考えて下さい。普通、4次元空間というと、四本の実数軸で構成されるわけですが、複素2次元空間としての4次元というのは、そのうち2本が虚数軸になっているという違いがあります。そして、この空間での回転がどういう構造を持つものなのかをまずは数学的に押さえようという主旨です。
人間の霊性を考えるのに、どうしてこんな小難しい数学的概念が必要になるのか、と訝しがれる方も多いかもしれません。僕がこのSU(2)という群の概念にこだわっている理由は、宇宙の創造の基盤となる根底的な2元性が自己と他者の2元性にあるのではないかと考えているからで、かつ、この自己-他者存在が構成されるための最も根源的な場の形式が数学では複素2次元空間として表現されているのではないかと狙いをつけているからなんですね。
科学的思考はすでに、地球から遠く離れた別の惑星に探査衛星を送るといったことまでも容易にやってのけるようになりました。しかし、一体どうしてこういうことが可能になるのでしょうか。科学者たちは衛星を目的地に送るために必要な物理法則をすべて列挙して、何度もコンピュータでシュミレーションを行います。そして、その結果としてミッションは成功する。しかし、実際に目的地で実験を重ねているわけではありません。すべてが頭の中の数学的観念の組み立てによるものであり(コンピュータとて同じ)、それを現実の世界で実行に移しているだけです。それなのに衛星は彼らの予測通り遠い惑星にまで到達し、予測通りの軌道に乗る。これは考えてみれば実に不思議なことです。ここには経験を介さずとも思考の力のみによって外の世界の本質を捉える力が働いていることが分かります。この力が一般に「理性」と呼ばれているものです。理性の中で働いている数学の論理性が経験以前に人間の「真」の確信を保証している。そのようなことがここでは起きています。いわゆるカントのいう「アプリオリ=超越論的」というやつです。
「対象に認識が従う」のではなく「認識に対象が従っている」——これがかの有名なカントのコペルニクス的転回というものでした。カントは理性の働きをアプリオリな総合判断として、人間が持った意識の玉座に据えました。しかし、理性を玉座に添えるのはいいとしても、それだと、理性が持ったこのアプリオリな性格に対して理性自体は何一つ思考できないということになってしまいます。カントが哲学で為したことも、理性の権利の行使に関するこうした制限でした。これによって哲学は形而上的なもの、すなわち神や霊性に対しての思考を断念せざるを得なくなったのです。理性にその権利はない、というわけです。
しかし、20世紀に入って、形而下であるはずの自然界の中からも理性の力が及ばないものが登場してきます。それが素粒子です。皆さんもよくご存知のように、素粒子の世界では不確定性原理というものが働いていて、通常の物体のように、位置と速度(運動量)を同時に測定することができません。つまり、素粒子は通常の物体のような存在ではないということです。そして、それを記述する数学にも一つの顕著な特徴があり、運動方程式が複素数でしか表現できないことです。それまで自然界で計測されていた物理現象はほぼ実数で記述することが可能でした。ですから、素粒子という現象の発見は自然を理性の対象として見ることに自然自体が異議申し立てをしてきたような出来事とも言えるのです
しかし、科学者たちの理性はこの差異を真剣に思考しようとはしなかった(アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルグ、シュレディンガーなど、量子力学の開拓者たちは熱心に議論していたのですが、戦争でそれは頓挫してしまいました)。そのあとを引き継いだ科学者たちは「理性が玉座」の方針を変えようとはせず、この正体不明の素粒子を古典的な物体と同じように操作可能な対象として見なし、結局、核エネルギーという自分たちでも制御不可能な化け物を生み出してしまいました。素粒子の世界ではもはや対象は認識には従っていないことを重々承知しているにも関わらず、です。
自然の根底に理性では理解不能な正体不明の力がうごめいているということ。このことに僕らはもっと畏敬の念を払わなくてはなりません。何度も言うようですが、そこでは対象はもはや人間の認識に従って動いてはいないのです。極端な話、僕なんかはカントのコペ転をもう一度、引っくり返す時期にやってきているのではないかと強く感じています。「カントは間違っている。やはり、認識は対象に従っている」のだと。
もちろん、ここでいう対象とは従来の感性的な対象といったものではなく、複素数として表現されている素粒子のことです。実は、素粒子に認識は従っている。いや、もっと言えば、素粒子こそがわたしたちのアプリオリの正体そのものなのだ、と。こうした新しい認識にたどり着くことによって、人間は狭隘な理性の呪縛を抜け出し、認識が自らのアプリオリ自体を認識するという全く新しい局面へと入っていくことができるのだと思います。それは言い換えれば、「認識と対象の見紛うことのない一致」と言ってもいいでしょう。これはカントが晩年に夢見た「もの自体」の認識に当たります。理性を超えた霊的知性(ヌース)が再び、意識の玉座につくのです。
素粒子の中に人間の認識と自然とをつなぐ秘密の根源が隠されています。多くの人が自らの霊性を奪回していく上でも、素粒子に対する理解、ならびにその数学的形式としての複素数の理解は大きな力になっていくのではないかと確信しています。
5月 6 2016
田邊元という哲学者
甲田氏から借りている田邊元の本。旧字体でなかなかとっつきにくかったのですが、時間ができたのでゆっくり読み進めています。方向性がベルクソン=ドゥルーズとそっくり。さらには数理的にはドゥルーズよりも深い思索をしていることに驚いてます。スピノルの解釈などもヌーソロジーと全く同じなのが二度びっくり。
田邊の思考の柱は内包的時空の世界弁証法というやつにある。この弁証法はヘーゲルのように同一性への綜合へと向かうのではなく、絶えず差異化を行っていく。つまり、外延においては部分が全体に先立ち統合へ向かおうとするが、内包においては全体が部分に先立ち、その限定として部分が思考されていくということ。
田邊の思考が内包的時空へと侵入した経路がまたすごい。たぶん西田からの影響だと思われるのだけど、そこにも「切断即連続」という彼なりの世界弁証法の思考が働いている。つまり、外延(実数直線)を切断しているのは内包だという考え方だ。分かりやすく言えば、直線をある点で切る無限小の刃幅のナイフとはどんなナイフなのかというと、それは実は直線全体を含んで内側へと入り込むものだといったようなイメージ。(ヌーソロジーのいう「コンパクト化」と似てる)
田邊は、外延と内包が接するこの交点を万物が交錯する絶対弁証法の蝶番のようなものと見なして、その位置のことを「現在(瞬間)に相当する矛盾の渦動的統一の中心」と呼んでる。そして、はっきりとは明言してはいないものの、その渦動的統一の中心を複素平面と見なそうとしていた様子もうかがえる。なんて人だ!!
今から半世紀以上も前に哲学と物理学をここまで接近させて思考していた哲学者が日本にいたということに心底驚く。字体を変えて復刊してほしい。ほんま読みづらくて(笑)
田邊を読んでいて改めて思ったが、まずは「内包」という概念を取り戻そう。霊やスピリットという表現でもいいのだけど、それだと似非宗教の手垢がつきすぎていて一般では拒絶する人も多い。「内包」や「持続」という表現であれば言葉は固いけれど、僕たちに創造の思考を促していくキーワードに成り得るのではないか。要は、物の内部と時間把持の場所概念というものを意識に再生させるのだ。
もちろん、それらを奥行きの空間と重ね合わせて。ここがヌーソロジーのキモ中のキモ^^。
田邊は複素2次元空間についても、それが絶対的弁証法成立のための基盤であるかのように語っている。嬉しくなるよね。もちろん、それが自己と他者における奥行きと幅の双対的構成とまでは語ってないけど(笑)
いずれにせよ、この二重の十字路が田邊がいうところの「矛盾の渦動的統一の中心」と言っていいと思うよ。存在の力はすべてこの捩れから発生してきている。要は物理学が「場」と呼んでいるやつだね。
物理学の「場」と聞くと、途端に難しく聞こえるかもしれないけど、本質はどんな人にでも分かるものだと僕なんかは思ってる。早い話、自他の純粋な奥行きと幅の関係がスピノル場だと思うよ。そして、自己、他者それぞれが自分の奥行きと幅を同一化させているところがベクトル場。ほんでもって、自他が奥行きと幅をそれぞれ交換し合っているところがスカラー場。スピノル、ベクトル、スカラーというのは物理量の基本とも呼べるものなのだけど、全部、眼差しの交差の産物なんだよね。どういう交差を持つかによって、それぞれ空間の質が違ってくる。
この対応から考えると、僕らが時空と呼んでいるものとは、自己と他者が共に自分の奥行きを他者から見た幅に置き換えて認識してしまっているところに生じてきている。何度も言ってるけど、それが外延世界の本性だよ。内包(=奥行き)から完全に疎外された場所。それを宇宙と呼んでいるなんてちょっと怖くならないかい。そこには自分の居場所なんて存在してないよ。
でもね、現在のほとんどの学問はそこを拠点にして作られているんだよね。内包として活動している自然生命がガタガタになるのは当たり前だよ。
田邊で物足りないのは、田邊がこの内包性の数理構造を社会理論に転化させて思考しているところかな。これは中沢さんなんかも同じ。いわゆる「種の論理」というやつなんだ。内包の発展から外延が生じるのだけど、これをいきなり今の社会に当てはめてしまうと、カントと同じように超越論的なものを経験に従属させてしまうことになっちゃう。ここがドゥルーズと大きく方向性を異にするところだね。田邊元のような人でも、創造的境域という発想がないんだね。晩年の西田が田邊のことをファシストと言って批判していたのも、このへんの思考性に原因があるのかも。
でも、正直、このへんは現在の哲学の限界なんだろうと思う。人間の思考が宇宙を再―創造する力があるなんてことを誰も信じていないだろうからね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: カント, スカラー, スピノル, ドゥルーズ, ベルクソン, 中沢新一, 弁証法, 田邊元, 複素2次元空間, 西田幾多郎