3月 11 2008
太陽と月に背いて(4)
画像はhttp://blog.nsk.ne.jp/stella/archive/month200603.htmlからお借りしました。
ヌース理論から垣間見える、「シリウス領域へのアセンション」についての話を続けます。
前回、前々回と――シリウスとは「モノ自体」の世界である――と書きましたが、一体何を言ってるのか意味が分からな~いよぉ~、と頭を抱えて込んでいる方も多いかもしれません。かくゆう僕も10年ほど前までは、シリウスの意味について七転八倒して考えていた部類の人間なので、どうぞご心配なく。多くの人たちにもいずれはっきりとこのことの意味が手に取るように分ってくると思います。
コ : シリウスとは何ですか?
オ : 重次元に反映された力の反転作用の意味です。
(シリウスファイル)
ここでオコツトが言っている「重次元に反映された」というのは、人間の内面の意識の総体と人間の外面の意識の総体が双対性として充満したときの、そこからの新しい力の立ち上がりのことを意味しています。無茶苦茶端折った分りやすい言い方をすれば、科学も宗教も行き着くとこまで行き着いて、もう先がなくなると、そこから「全く別のもの」が現れてくるということです。そうした状態になるとそこから意識は科学的なものと宗教的なものを相互に変換するような調整を自動的に行なうような仕組みを持っており、そのときに互いの等価性を見出す意識が生まれ、その意識の力の発現のもととなっている力が「シリウス」だと言ってるわけです。
この内容からも分るように、ヌース理論がいう2013年から始まるアセンションとは世界認識の激変、それも物質と意識という両者に対する概念の激変が始まるということを意味します。以前のサイトの「シリウスファイル原本」をご覧になっても分かるように、オコツト情報というのは、そのほとんどが物質とは何かに関する情報ばかりでした。もちろん、感情的な内容や宗教的な概念についてもいろいろと尋ねたのですが、そのほとんどについては無視されました。何の返答も返ってはこなかったんですね。ですから、結果的に、シリウスファイルは物質に関する情報に集約されてしまった形になっているのですが、と言って、オコツトがよこして来た物質情報は、地球科学が言うような無味乾燥なエネルギーの塊としての物質のことでは全くありません。オコツトに言わせれば物質の本質とは霊そのものなのです。
物質=霊。
こうした見方に立つことは、ある意味、従来の物質的世界観や霊的世界観からの脱却を意味します。方や科学では物質は137億年前に起こったビッグバンという出来事から発生してきたものと決めつけられ、方や、宗教ではそのような物質は霊的に低位の存在と見なされ、より高次の霊的な実体を物質とは全く関係のないところに求めようとします。——太陽が持つ明晰な狂気と月が持つ仄暗い狂気。これらはいずれも、物質は物質、意識は意識、というように両者の二元的な対立を相互保証するための、人間の意識が持った一種の症状と言っていいものです。
このような分離意識が科学的世界観と宗教的世界観相互の間に相容れない対立を呼び起こしていることは今の社会を見ても明らかです。どちらも互いの知識を吸収しようとはしない。もちろん、良心のある科学者たちや宗教者たちは、こうした分離はよくないということをよく分かっているので、物理法則は美しい。この美しさの背後にはきっと偉大なる何らかの存在がある、と言う科学者もいれば、神の御心はすべてにつながっている、このつながりの力は万物に浸透しており、物質もまたその例外ではない、と語って、科学的なものをもまた救済の対象とする宗教者たちもいます。しかし、互いに遠慮があるのか、はたまた互いの利権を保証し合おうとしているのか、それら両者が積極的に歩み寄り、この二つのものを統合しようとする知の営みは、現在の学問の世界の中にも宗教世界の中にもなかなか見当たりません。
こうして、知的権力は科学に、知的権威は宗教に、といったような最悪の妥協が引き起こされてくることになります。僕ら一人一人の魂はつねにこの対峙する二つの巨大な無意識の流れに引き裂かれ、現実的(俗的)なものと理想的(聖的)なもの、客観的なものと主観的なもの、父親的なものと母親的なもの、男性的なものと女性的なもの、超越的なものと内在的なもの、という種々の二元的な対立の間で、それらの間を反復することが「安定」だと教えられ、今も尚、この共に嘘っぽさを孕んでいる両者の知識の狭間で、深い苦悩の中に佇み続けているわけです。
問題は科学や宗教にあるのではなく、この両者の引き裂かれにあります。ヌース理論が科学も宗教も同じコインの表と裏にすぎない、とつねづね言っているのはこうした理由からだと思って下さい(つづく)
3月 20 2008
時間と別れるための50の方法(2)
●ルシファーからルシフェルへ
観測者が事象と関わると聞くと、まず思い描かれるのが観測者の視線です。目と対象を結ぶ線を普通、僕らは視線と呼ぶわけですが、人間の一般的な空間認識においては観測者としての自分自身をも物体状の存在者として3次元空間の中に投げ込んでいるために、この視線を3次元空間内の一つの線分として概念化してしまいます。目の前にコーヒーカップがある。コーヒーカップと僕との距離は約50cmぐらいかな。。ってな感じで。
しかし、この奥行きとしての50cmの距離は前回も言ったように客観的な空間ではありません。つまり、コーヒーカップが射映像として浮かんでいる平面をx軸、y軸からなる2次元平面の世界だとすれば、コーヒーカップから観測者である「わたし」に向かっている線は3次元の方向としてついつい解釈されてしまいがちです。しかし、時空というものの性質上、そこにはわずかながらも時間的な距離が存在しています。コップという映像の情報がコップから放たれている「光」によってもたらされているのならば、ごくごく正確な意味ではそこに見えているコップは「今、この瞬間」のコップではないわけです。とすれば、視線は必然的に4次元になっていると言わざるを得ません。視線に対するこのような次元解釈は別にヌース特有のトランスフォーマー型ゲシュタルトを持ち出すまでもなく、ごく単純に現行の物理概念にある時空概念を観測者自身の周囲の空間に当てはめてもそうなります。つまり、主観線(奥行き)とは時空としての4次元である、というわけです。
さて、一方の「あそこ」と「あそこ」を結ぶ客観線の方はどうでしょう。この線分はもちろん、視線ではないですね。対象と対象を結んでいる線なわけですから、その線分上には観測者は存在しておらず、そこには「見える光」としての交通網は敷設されてはいません。『光の箱船』で書いた表現を用いれば、この線分上を走っている光線は見えることとは全く関係を持たない「闇の中の光」と言っていいものです。そのような光は見えないわけですから、人間の意識によってただ想像されている光にすぎません。こうした光の速度のことを物理学は秒速30万kmと呼んでいるわけです。そして、その速度の意味が分からないという事態に陥ってしまっている。。前回書いた「懐中電灯から発射された光子が右手側にあるスクリーンに当たったという出来事」は、この意味で「闇の中の光」が経験している出来事であり、この出来事は観測者に目撃されるという一つメタな次元の出来事によって、はじめて、光の中の光へと相転移させられてきます。
ところが困ったことに、物理学的世界観の中では、さきほども言ったように、世界を見つめている観測者自体をも他の物体と同じような単なる時空上の位置として扱ってしまうために、「光の中の光」が顔を出すことは決してありません。哲学の言葉で言えば、実存が無視されているわけですね。ここが哲学者たちが物理学者たちが描く素朴実在論的な世界観をうさん臭く感じている一番のポイントとなっているところです。闇の中の光に対するOCOT情報は次のようなものです。
人間の内面における光のことを有機体と呼びます。有機体とはカタチのない精神のことです(シリウスファイル)。
シリウスの知性が「カタチ」と呼んでいるものとは「無意識構造の顕在化的様態(ヌース理論における「イデア」のことです)」のことを言いますが、OCOT情報によれば、人間の意識にはまだ、このイデアを思考対象として持つ能力が発現してきていません。僕らの自意識の中を調べてみればすぐに分かることですが、人間の意識の思考対象は、物質(形態や色)や音、イメージと言った感官から抽出されてきているいわば感覚的な表象世界のものがほとんどです。物質もまたイメージにすぎないと言ったのはベルクソンですが、その意味で言えば、感覚を通して得た表象、ならびにその属性物で思考はつねに作用しているわけです。
ヌース理論では、僕らが抱いている物質概念のことを「有機体の妄映」と呼びますが、このことの意味は、実際には「光の中の光」として見えていないにも関わらず、あたかもそこに物質が実在しているかのように構成された物質概念の独立性にあります。わたしとは関係なく、世界は物質に満たされている……こうした概念形成は実在性というよりは、あくまでも概念の産物であり、確固とした物質が時空上に存在しているわけではないということです。いや、もっと言えば、時空という物質のグラウンドとなっている場所性自体が概念の産物に過ぎないということなのです。
時空という闇の中に落ち込んで行き場を見失っている秒速30万kmとしての光。こうした光のことを旧約に倣ってルシファーと呼びましょう。僕らはこのルシファーを光の中の光へと召還する時期を迎えつつあります。神に反逆して闇の中へと追放されてしまった、12枚の純白の翼を持つと言われるその美しい天使長は、今や黒い毛に覆われた眼の見えない巨大なコウモリに姿を変えて闇夜の中を飛び回っています。この堕ちた天使長を本来の意味のルシフェル(光を運ぶ天使)として復活させるために,僕らは光が持っている意味を単なる物理的な光から霊的な光の働きへと変換させる必要があります。グノーシス主義者たちのいう「光の救済」に着手する必要があるということです。マリアの受胎、シリウスの力の降臨、創造空間への侵入、そしてアセンション。。。ヌース理論から見れば、これらはすべてこのルシファーからルシフェルへという光の変容の物語でもあるのです。——つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 0 • Tags: アセンション, グノーシス, トランスフォーマー型ゲシュタルト, ベルクソン