12月 24 2013
宇宙的性愛について
物質はドゥルーズが言うように精神の襞-地層のようなものだ。そして、この地層の最も深い部分は物質の表面として現れている。精神の地層は中心核から表面に向かって積み上げられているのだ。最も高度に地層化された精神は人間の肉体であり、それゆえ人間の皮膚こそが活動する精神の最先端の現れということになる。人間の意識は新たな先端の創成に向けてこの皮膚から発生している。
だから、人間は「触れること」において始まる知覚によって旧精神との〈折衝-かけひき〉を絶えず行っていると考える必要がある。知覚は旧精神と新しく生まれでようとしている精神との間で揺れ動き、ときに権力化し、ときに反権力として振る舞おうともする。それは男の知覚と女の知覚の拮抗とも言えるし、また公的知覚と私的知覚の闘争でもある。
女の知覚には生命の苗床がセットされている。女の知覚は物質の中心部に深く入り込み、物質の胎盤を持っているのだ。それは精神を刷新するため与えられた場所とも呼んでいいもので、プラトンはそれを=コーラ(子宮)と呼んだ。幾何学の本質(プラトン立体が眠る場所である)
男の知覚はファルス(神の男根)に従属しており、それは一者に仕えたいというオイディプス的な本能を持っている。陰茎は同一性の象徴だろう。精子とは文字通り古い精神=神霊の息子たちの異名であり、多数化するロゴスの様態を表している。
一方、卵子とは女の知覚の総体である。女の知覚は物質の胎盤という意味で素粒子のシステムと区別することはできない。素粒子もまた存在の子宮と呼べるものであると思われるからだ。種子としてのロゴスはこの子宮に向けて光の作用として放たれている。その意味からすれば、人間の歴史におけるすべての言語的コミュニケーションとは男神と女神の生殖の場とも言えるものだ。光とともに無数の言語が知覚に飛び込んではくるが、言語は知覚の場そのものをいまだキャッチすることができていない。一者の呪縛からの逃走能力を持つ精子は稀である。
女の知覚が待機しているもの——それは言語と知覚の完全なる一致である。この一致が本来、概念=conception(妊娠)と呼ばれる出来事の本質である。それは見るものと見られるものの一致に起こる思考の変質にほかならない。その思考から放たれる言葉において初めて精子は受精能力を持つのである。
卵子は7つの知覚振動の波束によって胎動している。[触覚、味覚-嗅覚、視覚、聴覚][運動感覚、言語感覚][自我感覚]——この中に卵が個体化を行っていくためのすべての原-情報が詰まっている。卵割=原腸形成、内胚葉-外胚葉、中胚葉という受精卵の成長はこの3つのグループで分けられた七段階の波束に沿って進められていく。これがドゥルーズのいう個体化のシステムである。ここにおいては死と生は一致している。
星の発生と、胎児の発生は、われわれが予期せぬところで重なり合っているのである。
12月 27 2013
ヌーソロジーがやりたいこと
ヌーソロジーは似非科学であり、オカルトだ。という人がよくいる。こうした人はヌーソロジーの出自(チャネリング情報)ばかりに目がいっていて、何をやろうとしているのかを見てくれない。個人的にはちょっと淋しい。
ヌーソロジーはもちろん科学ではない。と言ってオカルトでもない。科学というのは基本的に世界の内部に存在する物質を対象とする経験科学だし、一般的なオカルトは神秘主義的な伝統をもとに見えない霊的な世界をも含めた世界の構造を明らかにしようとする形而上学だ。
ちょっと難しい言い方になるけど、そうした視点からすれば、ヌーソロジーはカント哲学以降の大陸系の哲学の系譜を原点にしている似非哲学という言い方もできる。つまり「超越論的」視点をまずは重要視しているということ。でもこの「超越論的」というのが一般にはなかなか馴染みがない。だから、スピ系の人などには「分かりにくい」「難解だ」という言い方をされてしまう。
「超越論的」というのは「経験論的」のいわば反対語のようなもので、僕ら人間の経験が成り立つ条件について問うということを意味している。つまりは世界とは何かを経験から問うていくのではなく、人間の経験がどのように条件づけられているのか、人間の歴史以前から存在すると思われるそのメタな構造について考える、ということ。
哲学の世界は現象学のフッサールに始まって、ハイデガー、そしてフロイトやラカンの精神分析、さらにはレヴィ・ストロースなんかを通過して、構造主義、引いてはポスト構造主義と呼ばれるところまで思考を進めてきたのだけど、やはり、経験が先か、超越論的なものが先かでもめているようなところがある。
早い話、抽象的なことはもういいよ、僕らの現実に戻ろう。現実がうまくいかないから抽象的なことに走るんだ——とかそういった議論はあちこちで見られる。経験論的な次元と超越論的な次元がグルグル循環してにっちもさっちもいかなくなっているといったような状態。それが今の思想の現状だと思う。
僕がドゥルーズをよく引き合いに出すのは、ドゥルーズがこの循環の外部に出ることをいつも思考していたから。僕が「経験」したシリウス情報の原点というのは「πの循環を切れ」という言葉から始まっている。実はこの「πの循環」というのが上に書いた「経験論的な次元と超越論的な次元の間のグルグル循環」と同じものだと考えてる。ドゥルーズはこの循環路のことを「最小回路」って呼んでいるけど。。で、このグルグル回路の主が僕らの「自我の本性」。
その意味で言えば、科学もオカルトもこのグルグル回路の中で回っている自我の産物と言っていいように思う。哲学もまたここから出れているようにはとても思えない。なんで出れないのかというと、皆、好き勝手に自分の立場からのものの見方を主張していて、互いに歩み寄ろうとしないから。また歩み寄れるものとも思っていない。
前々から言ってるけど、この時代、科学もオカルトも哲学も、実はみんな同じ方向に向かっていると僕は感じている。それらが持っている根底の衝動はみな同じ——ここから出たい——って。でも、仲が悪い。なぜって、結局のところみんな自分の方法論が正しいと思っているから。自我だから仕方ないんだけど。。
哲学は素粒子が超越論的構造なんて発想をほとんど持っていないし、科学も素粒子が無意識の構造なんて想像だにしていない。オカルトは歴史的な神霊の言霊に洗脳されていて、科学も哲学もオレタチよりレベルが低いって勝手に思ってる。なんで皆、仲良くしないのかっていつも思っちゃうんだよね。だから、これら三者の間を調停することのできる新しい思考方法がないものかをずっと考えている。OCOT情報は僕にとってはそのヒントとなるエッセンスの塊のようなもの。
始めに話を戻そう。
ヌーソロジーは科学でもなければ、オカルトでもない(以前、真正なオカルトと表現したこちがあるけど、それはオカルトというものが本来「隠されたもの」という意味だから。「隠されたもの」は未だ僕らの歴史には登場してきてはいない!!)。そしてたぶん哲学でもない。それは今までになかったものだと思う。だからまだまだヨチヨチ歩きの幼児のようなもの。あまりイジメないようにしよう。幼児虐待に当たる(笑)
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カント, ドゥルーズ, ラカン