11月 8 2013
シュタイナーの身体空間論を見て思ったこと
最近は、持続の在りどころを奥行きとして、ずっとその構造を追いかけているのだけど、結局、シュタイナーの奥行き論?と完全に一致を見るようになってきた。興味のある方は『人智学・心智学・霊智学』(ちくま学芸文庫)P.235〜250当たりをご覧になられると面白いかも。
この部分でシュタイナーは時間の流れには過去から未来へ流れていく方向と、未来から過去へと流れて行く方向の二つがあると言い、それぞれを空間の左から右、右から左という方向で示しています。シュタイナーによれば、前者の流れがエーテル体で後者の流れがアストラル体です。
以前、左から右への方向は「身着(みぎ)る」ものの方向、右から左への方向は「霊足る(ひたる)」ものの方向としてある、という話を言霊の研究者の方から聞いたことがありますが、エーテル体の流れを悟性的時間、アストラル体の流れを感性的時間だとすると話はうまく噛み合ってきます。エーテル体は変質して悟性を作り物質体を概念として表現する働きを持っており、反対にアストラル体は感性としてエーテル体としての感覚を対象化する働きを持っていると考えられるからです。
通常、僕らは時間を過去から未来へと流れて行っているものとしてしか考えていません。こうした時間感覚はエーテル体の流れ、つまり悟性的な時間意識と言えそうです。悟性的な時間意識にとっては未来はいまだ訪れぬものとして常に予期の状態で存在させられているわけですが、そこで予期されている時間は、今が5時ならば一時間後は6時だろうといったような一般化した外在的な時間概念です。
一方、アストラル体の流れは右(身着るもの)から左(霊足るもの)、つまり、外在的な時間から霊的なもの、内在的な時間へと向かおうとする流れです。左方向には時間的には過去が存在するわけですから、シュタイナーが指し示す構造から言えば、霊的なものは過去に充満しているということになります。
実際、わたしにとって過去とはわたしによって経験されたものであり、それはわたしの記憶に回収されて、まさにわたしとしてあるものと共に生きているという意味で、一般的ではなく特異的なものになっていることがわかります。時間はなぜか過去は経験できるが未来は経験できないという形で存在させられていますが、このことは、過去と未来が、あたかも自己と他者のような関係として配置
からかもしれません。
ただし、ここでシュタイナーが指し示している左右方向の時間の流れは、魂の発達段階としては第二段階のものとして考えなくてはならないと思います。知覚心理の発達と照らし合わせるためには、まずは前-後があって、次に左-右へと身体の空間軸は開いていくのです。
前-後軸の場合は、「前」が特異性で、「後ろ」が一般性でしたから、魂の発達の第二段階の左右軸においては、前後軸がそのまま左右軸へと左方向に90度回転したものだと予想できます。
この前-後(見ること-見られること)から始まる身体の空間軸の内実を、左右、上下、さらにはそれらの統合としての方向というように、複素空間での次元概念を用いて追いかけているのがヌーソロジーの次元観察子という概念なのですが、それらが描き出すイマージュは素粒子システムにおける内部対称性の拡張と驚くほど似ています。
シュタイナーの霊学は必ずやOCOT情報と結合し、壮大な精神科学がまもなく登場してくるという確信が、現在、一段と深まっているところです。
11月 12 2013
虹色の襞の衣服を失って泣く女
ピカソやブラックに始まったキュビズムの絵画運動。今思えば、それは光の抽出への衝動だった。対象を対象そのものとして捉えること。そのとき表象は無限数の相貌を見せ、表象ならざるものへと変貌していく。結果、キュビズムは退散を余儀なくされる。
画家たちの衝動はそこで受動的なものではなく能動的なものを目撃する。カンディンスキー、モンドリアンetc。そこに出現するのは抽象的な線や面の世界である。
ここにはもはや受け取られたものとしての表象は存在しない。目の力の中で表象が何に成長していくのか、もしくは、そこから何が表象を成長させていくのかという、魂の律動の風景の問題がある。
時を同じくして、当時、物理学者たちもまた表象を超えるものの出現と格闘していた。量子力学だ。量子の世界では位置と運動量を同時に決めることができない。観測される前の量子的対象は確率の海で泳いでいる・・etc。物理学者たちが当時出会っていた対象とは、実のところこのキュビストたちの作品のイマージュの力にほかならない。
対象を取り巻く無数の多視点。そしてその多視点でその表面が埋め尽くされた不可視のたま。それが時間の中では回転として現れ、時空の中では平面波として波動化する。たまというすこぶる単純な形象が時間と空間という物理表現の形式の中で無意味に複雑化されていくのだ。
わたしたちの魂は本来、この「多視点でその表面が埋め尽くされたたま」が七重になって織りなす虹色の襞から作られていた。それは現代物理学が内部空間(余剰次元)に見ている7次元の球面と同じもののように思える。つまるところ物理的時間とはこの七層のたまで縫われた魂の衣服を見えなくさせているものである。
神話によれば、女神イシュタルは冥界へと下るときに身につけたその美しい七枚の衣服を次々と脱ぎ捨てていったという。おそらく人間とは全裸のイシュタルである。僕らは一人の女として今、冥界の深淵に立たされ、むき出しの皮膚から多くの血を流し続けながら泣いている。この神話は語る。彼女は再び七枚の衣服を一枚づつ取り戻し「天界と大地の女王」として再び蘇ると。。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 量子力学