11月 7 2014
3次元球面の風景
強度的空間の入口としての奥行き。運動量空間。奥行きの幅に対する直交性は位置空間に対する運動量空間の直交性に同じ。局所的位置に対する見るものと見られるものの関係に同じ。位置空間はイメージ、運動量空間は持続。
空間をわれわれの内在性として見るための概念を多数、構築すること。そして、その概念を量子構造と重ね合わせること。それによって物理学の意味と価値を異なる仕方の中で解釈すること。そして、この解釈の体系に内的一貫性を持たせること。これのみが意味の反-実現化のための唯一の方法である。
現在の物理学は力の単なる名目的定義に終わってしまっている。力の根拠があまりに不明確なのだ。世界像の崩落はこの力の根拠の不明確性に由来している。力を実在的に定義できる思考が必要だ。それのみが哲学と物理学との接合を可能とし、トランスフィジカルな新しい思想を作り出す。
「主体が世界にとって存在するためには、世界を主体の中におかなくてはならない。このねじれこそが、まさに世界と魂の襞を構成する(『襞』p.47)」とドゥルーズは言う。世界の中にある主体と、主体の中にある世界。この相互反転性をストレートに空間の中にイメージできるようになること。
ドゥルーズのいうこの「捻れ」が微視的領域に現れたものがuクォークとdクォークではないかと考えている。すなわち、主体における「前」と「後ろ」。
3次元球面を通常の2次元球面の延長線上に考えても、その実質は決してつかめないと思う。3次元球面上の一点は主体の観点以外にはあり得ない。観点の自転が+∞と−∞を接続させている。
モノが3次元球面に見えてきたとき、認識は時間と空間の発生場所を知ることになるのだろう。そして、おそらく、そのときモノは単一の存在として現れる。それはもはやモノの観念のカタチと呼ぶべきだろうか。あらゆる記憶はこのモノの観念の中を横行している。個別のモノはこの記憶との対比で認識される。
単一の存在としてのモノは個別の存在としてのモノへと射影されているのだ。そして、この単一の存在としてのモノが、われわれが陽子と呼んでいるものの正体ではないだろうか。
モノをあたかも外側から包摂するように見えているわれわれの認識は、実はそのままモノの内包性へと滑り込んでいる。この空間を切り開くことが、今からの人間の思考の方向性とならなくてはいけない。そして、そこに自らの内在としての生を見出すこと。
11月 12 2014
文字は踊る
福岡のヌースレクチャーに毎回のように参加していただいている一鬼香葉さんという方がいる。一鬼さんは書道の大先生で、たくさんの子供たちに書の楽しさを教えていらっしゃる。2ケ月ほど前だったろうか、一鬼さんから「今度、『墨&彩展』というタイトルで、子供たちの書の展覧会を開催するので、是非、いらして下さい」というお誘いがあった。何気に訪れてみた展覧会だったが、衝撃を受けた。一鬼さんがその場におられなかったので、感謝の言葉と短い感想をカードにしたためて、その場をあとにした。
後日、一鬼さんがオフィスにお出でになった。何でも、書を書いているときの子供たちとその親御さんたちの様子や、展覧会の模様を一冊の写真集にしてまとめたいということだった。カードに遺した僕の言葉をいたく気にいって下さり、写真集の中にも何かヌース的なメッセージをいただけないかという依頼を受けた。
その写真集が先週、出来上がってきて僕の手元に届いた。子供たちの笑顔が満載の写真集。そして、躍動感溢れる、子供たちの作品の数々。
見てるだけで幸せな気分になる。ありがたいことに、僕の書いたメッセージを写真集のど真ん中に見開きで載せてくれている。
一鬼さんの許可をいただいたので、そのメッセージをここでも紹介させていただきます。
文字は踊る
一鬼さんに誘われて、『墨&彩展』の展覧会に足を運んだ。
何でも小さな子供たちに、思うままに書を書かせてみたのだという。
中にはわずか1歳半の子もいるという。
そんな小さな子供たちに一体どんな書が書けるというのだろう。
単なる好奇心から、会場へと足を運んだ。
中に入った瞬間、驚いた。
そこには一つの別の宇宙が広がっていた。
まるで宇宙がビッグバンを起こしたときのような、
ものすごいプリミティブなエネルギーが一つ一つの作品からほとばしっていた。
体の中の細胞のひとつひとつがそのエネルギーに反応した。
そして、深く深く感じ入った。
これが一糸纏わぬいのちの姿なのだろうと。
いのちは回っている。
いのちはぐるぐると回っている。
死んでいくのも、いのち。
生まれてくるのも、いのち。
いのちはこの生と死のあいだで、
ほんとのいのちを生きている。
いのちは言葉を学ぶ。
言葉を学んで自分を生きる。
でも、生きることの中には、
言葉で表現できないこともある。
言葉になりたくても、
言葉から、こぼれ落ちてしまういのち。
それをわたしたちは「声」と呼んでいる。
笑い声のなかには何があるのだろう?
泣き声のなかには何があるのだろう?
つぶやく声に、おこる声。
はにかむ声に、はしゃぐ声。
声は言葉を超えている。
だから、声は言葉の前にあり、
声は言葉の後にもある。
おそらく、言葉を十分味わいつくしたあとに、
いのちは、また、声のなかへと帰っていく。
声の中でいのちが震え、
いのちの中で声が震え、
いのちは純粋な内震えとなって、
声の中へと帰っていく。
そして、そこから新しいいのちがまたひとつ。
言葉を知らないこどもたちだけが、
声がいのちであるということを知っている。
その声を受けて、文字は踊るのだ。
※ ※ ※
こんな素晴らしい展覧会を企画していただいた一鬼さんに、
この場を借りて、あらためて、こころからお礼を言わせていただきます。
ありがとうございました。
半田広宣
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