3月 12 2014
マルコビッチの穴たの空遠く、幸住むとヒトのいふ。。
君たちは前と後ろの空間を同じものと思ってしまっている。そういう世界の見方をしているうちは、宇宙の秘密は決して分からない。「前」を君に見えるものにさせている視野空間とは、実のところ前と後ろを仕切る壁に穿たれた穴のようなものなのだ。そう、あのマルコビッチの穴のように。。前と後ろとは全く別の世界だとイメージしてみよう。。
今、君たちが考えているように、もし前と後ろが同じ世界なのなら、君がぐるりと自転したとき、君はその中心にいることになるわけだが、その中心点、「ここ」という君自身の観点とは一体何なのか? メルロポンティはその中心点を「絶対的零点」と呼んでいたが、その正体の中にまで深く思考していくことはできなかった。
メルロポンティでさえも見逃していた、前と後ろを仕切る壁。。この壁の存在を少しでも感じたいのならば、まずはゆっくりと首を回して周囲の風景を見てみることをすすめる。そして、前が回ると同時に後ろも回っていることをそこでしっかりと認識に入れること。すると君は前と後ろを同時に見ることが決してできない存在なのだということが分かる。。
前と後ろ。前は見えるが後ろは見えない。後ろを見ようとしても、見てしまえばそれはもう前である。後ろは常に身を隠すのだ。そして、そのとき、君は君という存在がこの前と後ろを隔てた境界の壁として存在していることを感じとる。
どうだろう。視野空間というものが壁に穿たれた一つの穴のように感じてはこないだろうか。感じてきた人は、そこで今度は自らの呼吸に注意を向けるといい。この壁を通して、前と後ろを行き来しているもの。それが「息」と呼ばれているものである。息とは前と後ろの間を往来している君の中に住む聖霊たちのことだ——自と心としての「息」。吸う息は後ろを交差するために、そして吐く息は前を交差するために。。
君という存在を二つに分けているこうした基本的な場所の存在にさえ、今の君たちは全く気づかなくなってしまっている。「空間は3次元」などといった愚かな科学的言説に君たちが洗脳されてしまっているからだ。その3次元とやらがもし後ろに支配された3次元だったとしたらどうなる………?
君たちは漆黒の闇の中にいるということにはならないか?
3月 18 2014
ミューズたちも舞い降りている
友人の尾崎さんからナターシャ・グジーさんというロシア女性が唱っている「千と千尋の神隠し」の主題曲「いつも何度でも」のビデオを紹介された。歌声も素晴らしいのだけど、曲の歌詞を改めて見て少しびっくり。
こうした純朴な詩は自分の狭隘な趣味から言えば好みじゃないのだけど(笑)、ナターシャさんのルックスも相まってか、古代ギリシアから舞い降りたミューズの歌声に聞こえた。
ゼロになるからだ。それを充たすこと——。
歌は5分30秒あたりからデス。
「いつも何度でも」
作詞/覚 和歌子
作曲/木村 弓
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心躍る 夢を見たい
かなしみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える
繰り返すあやまちの そのたび ひとは
ただ青い空の 青さを知る
果てしなく 道は続いて見えるけれど
この両手は 光を抱ける
さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう
かなしみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっとうたおう
閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される
はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ
海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに みつけられたから
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By kohsen • 07_音楽 • 0 • Tags: ナターシャ・グジー, ミューズ