12月 6 2013
ドゴンの宇宙哲学『青い狐』
11月のレクチャーは冒頭でドゴンの宇宙哲学の話をしようと思っている。ドゴンの神話を専門に分析しようとしている研究者はおそらく皆無だと思うが、M・グリオールとJ・ディテルランが著したこの『青い狐』は構造主義が注目を浴びつつあった1960代のフランス思想界に一大センセーションを巻き起こし、あのドゥルーズ=ガタリも『アンチオイディプス』で結構詳しく触れている。僕がこの書物を手にしたのは1990年代の半ばぐらいだったのだが、初めて読んだときは体中に激震が走った。
ドゴンの神話体系はあまりに詳細というか、複雑すぎて頭では全く理解ができないのだが、そこで語られていく一つ一つの素朴な表現に細胞という細胞がブチブチと音を立てて反応する感じなのだ。当時、解読し始めていたOCOT情報と被るところが数えきれないほどたくさんあり、僕の中でシリウスに対する思い入れがより一層強くなった要因にもなっている。
次回、レクチャーで取り上げるということもあって、再度、読み返し始めたが、現行のヌーソロジーをベースして読むと、以前よりもより神話の語る意味の豊穣さがよく見える。この本が絶版になっているのは本当に残念だ。世界の数ある神話がその時代時代の権力者にいじられ変質を余儀なくされる中において、このドゴンの神話はおそらく人間の手によって汚されていない最も無垢なる神話ではないかと思う。その無垢さゆえに難解なものとなっているのではあるが。
昨今、スピリチュアル界隈で話題になっているシリウス星。伝統的オカルティズムでもシリウスはイシスやピラミッドとの関連で極めて重要な存在とされているが、願わくば、この『青い狐』に記されているような原形質感覚の中でシリウスについて夢想してほしいものである。
12月 10 2013
位置の交換に潜む真意
わたしたちは空間に潜むあるねじれとひきかえに世界から主体へと静かに遷移している。この「あるねじれ」は反転認識のことでもあるのだが、このねじれを同一性から差異への移行の風景として見ても何ら問題はない。
このねじれは今までは潜在的なものとして存在していたものであり、唯物論的に制度化された思考の中ではなかなかそれを見出すことは困難だったが、それは一つの超感覚的知覚として確実に浮上し始めている。
この捻れは外部を内部へと巻き込んでいる。見えない渦が猛烈な勢いでミクロへと流れ込み、われわれに認識の反転を促しているのだ。その渦が感覚化されてくると、主体が創造の原初へと方向づけられていることが分かってくる。この役割を担っているのが物理学が光子と呼んでいるものである。
物理学において内部空間が複素空間として表現されるのは、そこでは同一性と差異の関係がそれこそ存在論的差異として明確化されているからだろうと思う。シンプル言えば、幅と奥行きだ。
そこは時空と真反対の性格を持っていて、同一性(幅)が差異(奥行き=純粋持続)に従属していく空間になっている。この空間での統合(回転)は新たなる差異の発生の意味を持ち、いかなる同一性に回収されていくこともない。
複素空間で記述される量子力学の形式的な展開を見ていると、複素空間自体が精神が持った力能の数学的表現と言っていいもののように思えてくる。その力能とは一言で言えば、有限性の中に無限を内包させていく柔軟性だ。
そこにおいて回転が作る円や球はベクトル(線分)へと収束させられ、それがまた回転によって次元を拡張し云々〜、といった形で空間を次々に巻き取り、襞の多重性を表現していくのだ。その意味で単位円とは真の無限性であり、あらゆる生成を飲み込んでいく無始無終の精神の形象化のようにも見える。
さて、人間が居住する時空はといえば、複素空間が作り出すこうした空間の無限の多重なる襞は物質として現れ、空間自体は単なる容器としていかなる多重性も持たない弛緩の極限物として表象されている。
ドゥルーズは言っていた。マクロな知覚は、ミクロな知覚の間に確立される微分的関係の産物なのである。それゆえ意識の中に知覚されるものを生み出すのは無意識の心的メカニズムである——と。このメカニズムは量子力学(非相対論的)が場の量子論(相対論的)へと発展するときの構造変動の中にある。時空は量子から生まれる産物なのである。
マクロな知覚は3次元知覚に倣いそれは局所的な「いま、ここ=瞬間、局在」の上に生じている。一方、ミクロな知覚は内部空間知覚に倣い、非局所的な「いま、ここ=永遠、遍在」の上に生じている。前者は同一性の海。後者は差異の渦である。
わたしたちは幅と奥行きの間に絶対的差異を見出し、この差異の渦の中に侵入していかなくてはならない。新たな創造の扉はすでに開いているのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, 位置の交換, 奥行き, 複素空間, 量子力学