12月 13 2013
ドゴン神話を久々に読み直して——
〈奥行き〉と〈幅〉との間にある絶対的差異は実のところ人間の意識を二つに分離するための分水嶺のようなものである。これはエジプト神話的に言えばイシスとネフュテュスの分割に関わると考えていいように思う。そこにはアヌビスがいる。ブルタルコスは次のように書いている。
——アヌビスは水平な円であり、これにより「目に見えないもの」、すなわちネフテュスと、「目に見えるもの」、すなわちイシスが分割される。この円は光と闇の境界に存在し、光と闇に共有されている——
この水平な円が数学的には複素平面上の回転e^iθだということになるが、これは同時にシリウス星系にあるシリウスAとBの関係を意味しているのかもしれない。シリウスAの起源は「目に見えるもの」を出現させる〈奥行き〉にあり、シリウスBの起源は「目に見えないもの」として〈幅〉側に回された奥行きにあるということだ。僕らの通常の時空認識は言うまでもなく、「〈幅〉側に回された奥行き」として発生している。
「オカルティズムは純粋思考によって禊されるべきだ」というのが個人的な心情である。人間の中に潜む権力欲によって歴史の中で歪曲され続けて来た超古代の叡智を心霊的な言葉の呪縛から解放することが必要だ。それによってわたしたちの中に巣食っているルシファー的なものは撤退を余儀なくされる。
ドゴンの宇宙哲学は表現は極めて素朴で原始的ではあるものの、そこで展開される神話の構造は極めてシステマティックなものであり、具体的でもある。創造神アンマは考え=概念をとおしてものを作ったされ、ものの創造のメカニズムは「10の不動の記号」と呼ばれる「二つの〈先導-記号〉と八つの〈主-記号〉」を基礎としている。つまり、10は「8」と「2」の二つに分かれて働いているということだ。「1〜8」までは母胎であり、「9〜10(九-十=コト)」は次なる「1〜8」のシステムを作るための「先導」となる。この繰り返しだ。
2つの〈先導-記号〉の第一のものは〈概念(buriguia)の出現〉と呼ばれる。次の〈先導-記号〉は〈脱けがらの記号〉と呼ばれ、存在の脱けがら(kogo)を表す。〈脱けがらの記号〉の役割は、はじめの〈先導-記号〉の統括の下に創り出された混合体に用いられた四元素の脱けがらを、魂と生命力の貯えである〈主-記号〉に送り届けることである。
これらの記号のシステムはOCOT情報が伝える中性質と調整質の働きの関係とそっくりであり、まさに両者は思形と感性のイメージにピッタリと合っている。
少し難しい話になるが、「10の不動の記号」を物理学の対称性の拡張構造と比較してみると、そのまま、Spin(5)までのスピン群の形成に対応していると見なすことができる。Spin(5)~SO(5)(5次元における回転群)であり、この構造が内部-外部の差異構造を生み出し、もの(陽子-中世)の創造と意識(主-客)の発生の原器となる。
ドゴン族の創造神アンマが最初に創った種子がSpin群に対応するというのは何とも色気のない話に感じるかもしれないが、話は逆で、僕らの思考が複素空間や四元数空間に対してあまりに色気がない捉え方をしているので、それらの回転が生み出す次元の多重性に霊的な意味を汲み取れないだけなのだ。
空間は単なる器ではない。空間の中には定義不能な〈永遠=精神〉が浸透している。それは証明は不可能なことではあるが、また証明する必要もない。問題は単なる器と化してしまった空間にいかにして再び、わたしたちがいかにして永遠を注ぎ込むか、だ。でなければ、物質の秘密も、創造の秘密も決して分からないし、人間が今ここにこうして存在していることの意味も分からないだろう。
空間における雄性が幅である。そして、雌性が奥行きである。これはデカルトのいう神における二つの属性としての延長と持続(=思惟)に直結している。この両者の差異が単に観念としてではなく、空間の働きとしても見えてくることによって「空間は4つの角を持つ」ことになる。この「空間は4つの角を持つ」という表現は、ドゴン神話においてシリウスのノンモという両性具有の生命存在が地球に降り立つ時の様子を語ったものであるが、この「4つの角を持つ空間」というのが複素平面(幅=実軸、奥行き=虚軸)の本質ということになる。
OCOT情報は最初にこう言っていた。——まもなく人間の反対との交差が始まります。人間は精神が分離していますが、人間の反対には分離がありません。人間と人間の反対の交差によって、精神によい方向が生まれます——人間と人間の反対。これら両者の関係は「幅に支配された現働的なもの」と、「奥行きに沈んだ潜在的なもの」の関係と見ていいように思う。意識と無意識。神経症的と分裂症。領土化と脱-領土化。現実原則と快感原則。表現はいくらでもある。
構造主義的に見るならば、この奥行きと幅の本質は同時に「わたし」と「あなた」の関係でもあると言える。わたしの奥行きは他者にとっては幅の中にしか見えない。逆もまた然り。この双対の双児性の意識における自覚が空間に潜む生命力に再び活力を与える。この自他双方の空間の在り方の捻れを徹底的に意識すること。
幅方向に沿う他者の眼差し。そして、奥行きに方向に沿う自己の眼差し。この二つの眼差しが作る直交性を複素平面に見立てることによって、わたしたちの世界は時空から抜け出て、物質の起源の世界へと入り込む。ドゴン神話にいうノンモの再生が始まるのだ。
12月 17 2013
改めて、言葉とは何かについて簡単に書いてみる
——OCOT情報では「言葉はヒトの定質において作られ、ヒトの思形において送り出される」と言います。あまりにもあっさりとしたもの言いではあるのだけど、その意味はおおよそ次のような感じです。まず前提として精神には彼岸と此岸というものがあるということ。正確ではありませんが、便宜上この両者を人間における「あなた」と「わたし」と呼ぶことは可能です。文字通り「あなた」という存在は「彼方(あなた)」にいると思えばいいでしょう。OCOT情報がいう〈ヒトの定質〉というのはすでにこの「あなた」と「わたし」のどちらの精神も持ち合わせている統一的精神のことを言い、その力は言うまでもなく自他を等化しています。
これは裏を返せば、人間が用いる言葉の場所ではすでに自他は等化を前提として生きているということを意味します(同一化を余儀なくされているということでもあるのですが)。言葉によってコミュニケーションが成立するのはこうした統一的精神が人間存在に先駆けてセットされているからだと考えるといいと思います。先行的に投射されたものという意味では言葉と外在世界(時空)とはほとんど同じものです。ですから、言葉の発生が世界を出現させると言い換えてもいいわけですね。
このように言葉と外在世界の由来が同じものであるのならば、外在世界とはすべて概念(悟性による言葉の力)の産物にすぎないとも言えます。一般には言葉は人間の意識が知性的段階にまで発達することによってモノに貼付けられたラベルのように考えられていますが、決してそのような表面的なものではなく、モノとともに練り上げられていった精神による生成物のようなものだと考えなくてはなりません。だからこそ言葉は物質の多様性や複雑性に対していつまでも付き添うことができるのです。つまりは亡き父(姿を消してしまった創造者)の痕跡として言葉もまたあるということです。
もちろん、実際にはわたしたちの内在性も言葉で多様に表現されているわけですが、あくまでもこの内在性は外在性に従属させられた状態でしかありません。本来、結果として出現している世界を原因と取り違えてその中に縛られている——それが現在の人間のこころの在り方です。結局は死せる神霊にすべてが支配されているという例の神話パターンに尽きるのですね。古来より言葉が「呪(しゅ)」と言われるのもそうした縛りから来ているのだと考えて下さい。
しかし、同時に人間は新しい精神の誕生に向けて方向付けられてもいるのです。知覚が降り立つ場所(主観世界=感性)とは本来そうした方向付けをされた場所であり、ここでは同一性から抜け出そうとする新しい精神の胎動があります。哲学的に言えば、知覚というのは本来、存在論的差異(同一性から抜け出そうとしているということ)を持とうとしている場所なのです。存在における人間の役割とはこの新しい精神に向けて存在を脱皮させることにあるのですが、そこにおいては言葉はその胎動を何とか押さえ込む抑圧的な力としてしか働きません。唯一、詩の言葉を除いては、ですが。。このへんはポスト構造主義の識者たちがすでに指し示していることではありますが、いかんせん問題は新しい精神の覚醒というものが果たして従来の言語の同一性を拠り所とする思想という思考作業の延長の中で可能なのかどうかということ。思想の思考は言葉で紡ぎ出されるものだから、結局は同一性に回収されざるを得ないのでは?というのがヌーソロジーの思想全般に対するスタンスなのです。
自己と他者、知覚と言葉、被造物と創造者。。。こうした二元的な対比はすべて互いに深いつながりを持って存在全体の機構の中でネットワーク化されています。言葉はこの中でこの全体性を閉じるものとして働いているのです。と同時に新しい精神の種子としてもうごめいている。この種子を発芽させること、この全体性を開かれた全体性へと持って行くこと、それが今、世界に要求されていることではないかと思っています。そのために必要なのが、この存在の根幹となる創造の回路を幾何学的に表現し、そのトポロジーの助けを借りて人間の役割というものを存在全体との関係において見つめ直すことだと思ってます。別にここでいう「人間」というのは人類とか大仰な意味では決してありません。それは個として生きる「わたし」自身のことです。現代物理学というものはその創造の回路の青写真として登場してきたのだと僕は思っています。だからこそヌーソロジーはここに執拗にこだわるのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 言葉