5月 7 2014
新しきロゴスのイマージュ
思考(ロゴス)が存在を超え出て新しい無限を切り開いていくとき、思考はそこで初めて魂(プシュケー)と出会うことになる。そして思考は、そこで初めてこの女なるものとの間にエロス的関係を持てるようになり、ヌースへと変身を果たす。これが古代のグノーシス者の一部が感じ取っていたロゴス(思考=種子)とプシュケー(魂=子宮)、そしてヌース(能動知性=胎児)の関係性である。
ここで展開しているロゴスのイメージは現代哲学を軽く凌駕している。このロゴスはもちろんキリスト教が言うような「受肉したロゴス」のことではない。あえて言うならば、イエスと同時代にアレキサンドリアにいたフィロンによる「切断者としてのロゴス」のイメージに近い。
「切断者としてのロゴス」というのは、言うなれば、ロゴスに抗って運動するロゴスのことである。思考に抗って思考自体を切断する思考……とでも言おうか。だから、この切断によって起こる分離はハイデガーの言う存在者と存在との差異に似てなくもないが、もっとデカイ。存在者を含んだ存在と、それを超え出ていくものとの差異ということにでもなろうか。
永遠の時間を一つの存在だとするならば、この「切断者としてのロゴス」とは、その永遠性さえをも超えて行こうとする一つの無限による無限運動と呼ぶことができる。要は、存在を丸ごと差異化させるような運動だ。そして、そこに存在の刷新を呼び込むこと。「創造とは分離から始まる」のである。
こうした思考には一者は存在しない。というのも、普通、一者とは分離ではなく統合を行うものと考えられているからだ。だから、フィロンは「1」ではなく、「2」を始まりの数にした。
さて、わたしたちの今現在の世界を覗いてみよう。「2」は二元性という言葉に代表されるように対立の数と見なされている。善と悪、光と影、わたしとあなた、男と女etc。どこを覗いてもそこには「二なるもの」における対立の乱交状態があるかのように囁かれ、「2」は常に悪者として糾弾されているかのようだ。
しかし、わたしたちの世界にほんとうに「二なるもの」が生まれているのだろうか? それは実のところ「一なるもの」が自らの支配を隠蔽するために流したデマとも言えるのではないか。
古代のプラトン主義者たちが考えたように、存在がもし一者であるのならば、その一者は「1」の観念として当然、個物の中にも影を落としている。一つのモノであれ、一匹の動物であれ、一人の人間であれだ。つまり、一人の人間にも厳然と一者が宿っているのである。それはわたしたちが「自我」と呼んでいるものにほかならない。
そして、知っての通り、この自我はどうあがいても自分の世界の中でしか生きられない。たとえわたしたちが万物の中にあらゆる二元性がうごめいているのを目撃したとしても、この2元性はこの閉じた一元性、つまり自我の中でうごめいている「2」にすぎず、それはつまり「1」の中の「2」、同一性に従属した差異の範疇でしかないのだ。
ここで「切断者としてのロゴス」が意図することが明確になってこよう。つまり、存在=一者に憑依された存在者としての人間=自我が、存在を乗り越えていくときに見出す超-存在、つまり、存在を切断する新たなる存在の芽、それが切断者としてのロゴスのことなのだ。となれば、存在の連続性を担保しているのは一者としての神などではなく、この二なるものとしての天使性と言ったほうがいい。
であるのならば、わたしたちが自然の中に見る生命の連続性の中にも、この無窮の無限運動の切り開きをイメージしなくてはならない。一つの種子から一つの樹木が生まれることも、一匹の動物から一匹の動物が生まれることも、そして一人の人間から一人の人間が生まれることも、一重に存在を超え出ていこうとする「一なるもの」からの切断力の現れでもあるのだ。
ドゥルーズを持ち出すまでもなく、おそらく、今、世界に必要なのは、それそのものにおける差異である。「1」という存在に閉じ込められた世界に「2」を到来させなくてはならない。そして、そのときに初めて、わたしはほんとうのわたしとなってとほんとうのあなたを世界の中に迎え入れることができるのだ。
そのとき、ロゴスとしての男ありき、プシュケーとしての女ありき、そして新しい生命としてのヌースありき、と考えた古代のグノーシス者たちの存在世界に対するイメージをわたしたちは真に理解するに違いない。
5月 12 2014
目の前には二種類の空間が二重化して存在している
時間と空間の発生の構造的起源はアイソスピン空間における回転の生成子σ2(シグマ・ツーと読みます。パウリ行列の2番目のもの)にあるように思われる。σ2は複素2次元空間におけ実平面の回転、虚平面の回転をそれぞれ作り出すが、前者が3次元空間、後者が時間の生成とそれぞれ関係しているのではないかと予想している。
奥行きを虚軸、幅を実軸を見なすならば、複素2次元空間における実平面の回転とは自己と他者が幅を共有した認識の状態を、同じく虚平面の回転は奥行きを共有した認識の状態をそれぞれ意味すると考えられる。これは分かりやすく言えば、対面する状態にいる自己と他者が、共に左右方向からの視線を第三の視線として共有し、本来の奥行きに幅を与えている状態として解釈することができる。つまりは、左右からの視線によって奥行きに幅を与えている、ということの意味だ。
このことは何を意味するかというと、客観的世界においての時間軸の本質は左右方向にあり、空間軸の本質は前後方向に生まれているということだ。一言でいうなら、自己と他者、互いが横からの視線を共有することによって、奥行きに幅を作る——このことによって時間と空間が発生している、ということになる。
こうした構造をOCOT情報に照らし合わせると、とても面白いことが分かってくる。OCOT情報では左右からの視線の共有は「位置の等換」と呼ばれ、それは「思形」という客観の力を生み出すとされる。一方、それに反映される力は「感性」と呼ばれ、こちらは「位置の融和」によって主観を構成する力の意だ。
このことから、時間が客観の条件となり、空間が主観の条件となっているということが言える。僕らは客観的時間などという言葉を無反省に使ったりするわけだが、実は客観的世界というものは時間がないと生まれないのだ。「空間が主観の条件になっている」というのは、左右からの視線によって幅化してしまった奥行きが本来の奥行き(虚軸=持続)を感取していると考えるといい。僕らは前にも幅を見ている。その幅の下に実は虚軸が隠されており、そこに記憶の場所としての純粋持続が働いているということだ。
人間においては感性が先行し、思形がそれを後追いするので、先に空間によって主観が形成され、その後に時間認識が発生してくることになる。このことは人間の意識発達を考えれば容易に理解できるだろう。幼児はまず主観的空間を形成し、それから客観的世界を意識に構成し始める。ドゥルーズ的に言えば、前者が受動的総合、後者が能動的総合に当たる。
超越論的なもの(人間の無意識構造=魂の構造)を思考していくためには、まずは目の前で展開する世界の基盤に二通りの場所の区別をしっかりとつけなくてはならない。一つは従来の時間と空間。もう一つはそれらの起源とも呼べる複素2次元空間。意識の基礎はこの二つの場所性の二重化によって成り立っている。
現在の人間(科学的思考)は時間と空間だけでしか世界を見ていない。丸々半分が欠如しているのだ。この見方から類推されている世界観は全くデタラメな世界イメージをわたしたちに提供していると言っていいだろう(ビッグバンや進化論等)。これからの時代は主観的世界をその底辺で支えている複素2次元空間の認識を取り入れることが絶対不可欠になる。それによって哲学と物理学は融合を果たし、主体と客体が一体となってダイナミックに脈動する、真の宇宙の姿が見えてくることになる。
これらの内容について今週日曜日に行われるNOOS LECTURE 第6回でNCやケイブコンパスの構造を通して詳しく解説する予定なので、参加される方は予習がわりに要チェック!!
ということで、ヌースレクチャー2013シリーズ IN 東京 第6回の最終告知です。
http://noos-academeia.com/blog/?p=1636
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 02_イベント・レクチャー • 0