5月 23 2014
ヌースレクチャー2013 IN 東京 大盛況のうちに無事終了
2013年7月から東京で開始したレクチャーシリーズも、今回でとりあえず6回分のプログラムを終了。2014シリーズが始まる9月まで、とりあえず東京レクチャーの方は一休みすることになる。
「2013年が来た!! ヤバイ。言い出しっぺの一人しては何か落とし前をつけんとなるまい」と思って、10年ぶりにスタートさせた東京レクチャーだったのだけど、参加者の皆さんの暖かい応援のおかげで何とか最後まで開催することができた。第一回目が90名ぐらいの参加者の皆さんで埋まり、最終回に至っても約70名ぐらいの方々が会場に足を運んで下さり、中には全回顔を出していただいた方々もいらした。決して安い参加費のレクチャーでもないのに、ここまで熱心に聴講していただき、こころより感謝致します。ペコリ。
この2013シリーズ、当初の予定では6回のレクチャーでヌーソロジーの「次元観察子」という概念(人間の無意識構造の幾何学)の全体像を網羅する予定でいたのたけど、やっぱり甘かった。結局はψ1〜2からψ13〜14まで七段階ある構造のうち、第5段階目のψ9〜10までの解説まで来るのがやっと。予想通りというか、なかなか大変というか。。
ヌーソロジーというのは基本的に人間の無意識における構造論がベースになっているのだけど、構造論と呼ばれるもの自体、基本的に味気がないものだ。ホワイトボードにいろいろな図を書いて「これが何々で、こちらが何々ですぅ〜」といくら丁寧に説明しても、文脈を追えなくなれば聴いている人たちには大方が睡魔が襲ってくる。ヌーソロジーは特に既存の概念では到底説明しきれない新種の概念のオンパレードで組み立てられているので尚更だ。昔のヌースレクチャーでは実はそうした風景を何度も目撃している(笑)。そこで今回のレクチャーでは、構造が持つクラルテ(論理的整合性)はほどほどに(構造がそこまで明確になっていないというのもあるのだけど^^)、エクステンド(イメージの広がり)も意識して話をするように心がけた。宗教や芸術の話を交ぜたり、アニメーションや音楽を使って楽しく理解できるようにしたり。。しかし、上質のクラルテとエクステンドを提供するのはほんと難しい。まだまだ修行が足りんな、という感じ。9月から始める予定の「2014シリーズ」では、もっと精進して頑張らんとアカンね。
さて、今回のレクチャーシリーズで一番伝えたかったことは何だろうか——と自分なりに振り返ってみると、やっばり複素2次元空間を導入してやっと見えてきた「魂の彫塑」の方法論なんだろうなぁ。と思ってる。この「魂の彫塑」の方法についてはこの第6回で紹介した「NC(ヌースコンストラクション)」のアニメーションでその形成プロセスをまとめ上げたのだけど、このプロセスを目の前の実際の空間で構成できるようになれば、もうそれだけで十分。という感じかなぁ。
目の前の空間には複素2次元の球体が常に張り付いており、そこに重なるようにして左右方向に時間、前後方向に空間が生まれている——この二つの対極的な場所の区別が明確に意識化されてくると、世界のすべてが実は「内在」であるという意味がしっかりと理解できてくるという筋立てになっています。そしてこの両者の関係性は同時に僕らの生と死における対極的な空間体験の仕方でもあるので、この構造が見えてきてそこにかつての自分を感じ取れるようになると、「人は死ななくなる」という言い方もできてくるわけです。シュタイナー的にいうとエーテル空間の知覚化ですね。そして、このように魂が知性に顕在化を起こしたときは、それはもう魂とは呼ばずに「霊」と呼んでいい。魂というのは体と霊の結合部分に存在させられていたものだから。。ほんとうの幾何学もこの霊的空間から生まれてくる——といったような話を今回のレクチャーでは「コーラ、存在の子宮」というタイトルのもとに話しました。
なお、7月は一回レクチャーをお休みして「ヌーソロジーVSシュタイナー」と銘打ち、ヌーソロジーと人智学の共通点を探るためのイベントを行う予定です。シュタイナーの思想は壮大なので、とりあえずは2013シリーズで紹介したヌーソロジーの内容と被る部分、人間の魂の構造の部分(感覚魂・悟性魂・意識魂)に焦点を当てて、シュタイナーの概念を、文字どおり精神科学として現代科学的に再構成する作業にトライしたいと考えています。ゲストに東邦大医学部の大野さんと経産省官僚OBの福田さん(ともにシュタイナー研究歴20年のベテランであり、ヌーソロジーにもお詳しい方です)をお呼びして、シュタイナー思想とヌーソロジーの酷似性について講演していただいたり、ディスカッションしたり、盛りだくさんで行きたいと思っています。白熱しそう。。。
あっ、最後に一年間レクチャーのスタッフワークをしてくれたライトスタッフの藤本さん、ヌーソロジー・ロッジのRicardoさん、Raimuくん、それと義理の妹のセコちんと、撮影を担当してくれたワタリくんに、改めて感謝の意を表したいと思います。ペコリ。
5月 27 2014
言葉を超えて声の彼方へ
言葉が彼岸(他者)と此岸(自己)の間でコミュニケーションの道具として活動できるのは言葉がこの両岸に架かる橋を渡り終えた何者かの力の現れだからだろう。「言葉は神とともにありき」と言われるように、言葉には神霊が宿っており、僕らがコミュニケーションと呼んでいるものもまたこの神霊の内部で展開されている閉ざされた交換性にすぎない。
しかし、言葉は同時に声として発せられるものでもある。文字として表された言葉もこの声としての言葉を含んで初めて成り立つものだ。しかし、声自体は言葉ではない。声は言葉からはみ出ている。言葉には成らない言葉。それが声なのだ。とすれば、声は神霊が擁する意味中枢に捕まることから常に逃れ出ようとする聖霊たちのほとばしりとも見ることができるだろう。絶叫の声、悲嘆の声、歓喜の声。。声として言葉の外部へと泉のように溢れ出る情動の流れ。
おそらく、一般に考えられているように声から言葉への進化があるのではない。言葉から一つの内なる声に向かっての進化があるのだ。この声はわたしたちの意思の内震えのようなものであり、鉱物たちがその内部に響かせている振動としての声でもある。言葉なき内なるコミニュケーション(コミュニカシオン)。。
このように想像してくると、石板に文字を刻むというあの一神教の行為がいかに野蛮なものであるかが分かってくる。一神的な思考は「22」という数の魔法に幻惑されており、わたしたちから石の中に響く声を聴き取る能力を奪い取る。
鉱物たちの中に響いている声にとっては、部分も全体も同じ——である。そこには、いかなるヒエラルキーもなく、静寂のざわめきの中でただひたすらにコスモスを結晶化させているのだ。
「石は凍れる音楽である」と言ったのは確かピタゴラスだったと思うが、その音楽とは聖霊たちが奏でる和声であり、幾何学の本質もこの和声にある。プラトンが掲げた「幾何学を知らざるもの、この門に入るべからず」というあの有名な言葉も、この意味においての幾何学である。言葉を超えて声の彼方へ——そして、コミュニカシオンの結晶地帯へ、、
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: コミュニカシオン, 言葉