6月 6 2014
レミニサンスの場所としての奥行き
奥行きはありのままで無限小の世界であるといつも言ってるのだが、ここでいう無限小というのは決して微小な距離を意味するわけではない。それはもはや時間や空間で捉えられる場所ではないという意味だ。
ではそこはどのような場所なのかと尋ねられて、いつも「純粋持続が息づく場所だ」と答えているのだが、これがどうも分かりにくいらしい。そりゃそうだ。ベルクソンなんて今の時代、哲学に興味がある人間以外、誰も知らない。
何とかこの純粋持続の感覚をイメージ豊かに伝達できないものかいろいろと考えている。「心の中でずーと続いているように感じているもの」と平易に表現しても心理的な持続にしか解釈されないだろうし、無意思的記憶と言っても難解だろうし、記憶の容器と言っても通じないだろうし、ここクリアせんとね。
流れ行く時間を水平の時間と呼ぶとすれば、無意志的記憶の時間は垂直的時間と表現してもいいのではないかと思う。事実、この軸は時間軸にさえ直交していることだろう。水平方向に絶えず立ち現れては壊れていく現在を垂直方向にパイリングして現在を重層的に構成していく異空間の深みのようなもの。
わたしたちはたぶん眠りにおいてのみその深みにダイレクトに触れることができている。そこには時の流れの全記憶がコロイドのように乱交状態を作りながら記憶の容器の皮膚を刺激し、わたしたちを忘却から目覚めさせようとしているように感じる。
レミニサンスの場所としての奥行き。
「存在」と聞いたときは空間の広がりではなく、常に時間の深みのことを意識しよう。ここには過去形などといったものはない。時間の深みがただ永遠の現在としてある。その感覚を常に意識し続けることによって、徐々にレミニサンスの空間が開いてくる。
フォロワーのA氏からの質問——レミニサンスとはなんですか?
レミニサンス(reminiscence)というのは回想、追憶の意味ですが、哲学では「無意志的記憶」といった意味で使われます。無意志的記憶とは忘却されたイデア界の記憶、アイオーン(永遠世界)の記憶のようなもの。プラトンの想起説に基づいています。
レミニサンスに関してはプルーストのあの有名なマドレーヌ菓子の話があるのだけど、その話は感覚とアイオーンとの繋がりを語っている。たとえば、ふと立ち寄った小料理屋て食べた芋の煮物の味が生まれ育った故郷の思い出を突然フラッシュバックさせることがある。そのとき何とも言い知れぬ幸福感が漂う。
その幸福感を単に懐かしさに心が和んだ、といったような心理的なものとして捉えるのではなく、諸感覚の記憶同士が互いに分ちがたい関係を持って襞のようにして永遠の現在の中で繋がっている場所があり、その場所の出現が一時の至福感となって浮き上がってきたのだと捉えること。魂との接触。
それを幾何学的に彫塑したものが位置の統一化の場所としてのψ5に当たる。観点が球面化した空間。メモワールの器。奥行きがそういうものに見えてくれば、対象がつねに無限数の記憶の襞を陽炎のようにまとって息づいていることがイメージされてくるはずです。
魂と諸記憶とのこのような関係を物理学は「ボソンは同じ状態に無限個入ることができるが、 フェルミオンは同じ状態に 1 個しか入ることができない」などといった色気のない表現で語る。
素粒子に概念を孕ませなくてはならない。
6月 10 2014
資本主義の未来
「前は見えるが、後ろは見えない。後ろは想像的なものであり、鏡の中の世界だ」といつも言ってる。時間についてもおそらく同じことが言える。「過去は見えるが、未来は見えない。未来は想像的なものであり、鏡の中の世界だ」。
もし未来が鏡の中の世界だとすれば、過去から未来へと流れていく時間に乗っているかぎり、永久に鏡の中から出られないということになる。ここは「時間は過去から未来にというよりも、むしろ未来から過去に向かって流れている」と考えた方が時間の真実により接近できるのかもしれない。
シュタイナーは確か過去から未来へと流れる時間のことをエーテル的時間、一方、未来から過去へと流れる時間のことをアストラル的時間と呼んでいた。ドゥルーズ的に言えば前者が一般性としての時間、後者が特異性の時間ということにでもなろうか。未来は経験の外にあるので一般化されているが、過去は経験の内にあるので特異的であるといったような意味だ。
問題はやはり過去と未来を分け隔てている「現在」という「あいだ」にあるのだろう。ここには流れとは呼べない中空の穴が空いている。現在は流れるが流れない。こうした現在そのものの性質が中空的なのだ。ここは時間の流れから見れば一瞬だが、「あいだ」自身から見れば永遠となっている。物理学でいうなら時空と複素空間の接点。時空の一点一点には内部空間が張り付いている云々とされるヤツだ。
この過去と未来の間に埋まっている永遠を木村敏のように「祝祭の時間」として考えることは確かに面白い。アストラル的時間に意識を偏向させすぎた人にとっては、祝祭の時間が待ち遠しくてたまらない。それが来るのか来ないのか「アンテ・フェストゥム(祭りの前)」的感覚というやつだ。この手の人たちは主観的時間感覚が強いので持続世界に無意識のうちに触れて、それが浮上してくる真の未来の到来を無意識のうちに感じ取っている。だから、「まもなく人間は意識進化する」とか「アセンションはすでに始まっている」とか言って騒ぎ立ててしまうのだが。。ワシもおそらくその部類だろうか(笑)。
一方、エーテル的時間に意識が偏向している人は現在=「祝祭の時間」は過ぎ去ってしまったものでもう二度と戻ってこないという感覚の中に生きている。こちらは「ポスト・フェストゥム(祭りの後)」的感覚というやつだ。祝祭はもう終わったのさ。意識進化?馬鹿なことを言うな。未来は延々と続いていくんだよ。というように、物理的時間の中に引きこもってしまう人たちの習性とでも言おうか——。
木村敏は「アンテ・フェストゥム(祭りの前)」的感覚が極端化したのが分裂病(統合失調症)で、「ポスト・フェストゥム(祭りの後)」的感覚が極端化したのが躁鬱病だと考えた。
ドゥルーズ=ガタリは資本主義と分裂症の関係を鋭利に分析したが、資本主義が未来を投資や投機という名目によって貨幣で覆い尽くしている現状を考えれば、「資本主義と鬱病」というタイトルのもとにもっと資本主義分析がなされてもいいように思う。エーテル的時間の流れに身を任せて、未来を貨幣で売買することは、それそのものが躁鬱病だ。吉田拓郎ではないが、「祭りの後のむなしさ」が資本主義の原動力となっているのだ(ふるっ 笑)。
躁状態と鬱状態の間で絶えず反復を繰り返す資本主義の欲望。この欲望の力を現在から垂直に切り立つ宇宙的祝祭の時間の方向へと誘導する方法論を何とか発明したいものだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 4 • Tags: アストラル, エーテル, シュタイナー, ドゥルーズ, 貨幣, 資本主義