11月 9 2018
ケイブコンパスのイメージを膨らませるための簡略的なメモ
ヌーソロジーに関心のある方は、下図を参考にして読まれてみて下さい。あまり丁寧な解説ではありませんが、雰囲気はざっと分かるかもしれません。この空間構造を実際に観えるものとして意識に顕在化させていく作業がヌーソロジーです。
●ψ1~8領域―「人間の元止揚(ゲンシヨウ)」
総体の精神が物質化しているところ(「総体の外面」と呼ぶ)。総体の観察子次元に当たる脈性観察子Φ7~14領域が凝縮化しているところ。Φ14の最先端が人間の胎児の生成因に当たる(例の空海の胎蔵界曼荼羅の中台八葉院に当たるもの)。
●ψ10領域―「人間の感性(カンセイ)」
胎児の身体が外界に出現してきたときの原初精神(総体の内面方向)への最初のアクセス面。人間の元止揚に人間の外面側から関与を行い、人間にとっての知覚空間を形作る。感性はψ1~2(触覚)、ψ3~4(生命感覚)、ψ5~6(運動感覚)、ψ7~8(平衡感覚)という順序で人間の元止揚に関与していく。0歳~7歳までの意識空間。ここでは意識は前後軸で働いている。()内はシュタイナーの12感覚論に対応させたもの。
●ψ9領域―「人間の思形(シケイ)」
人間の精神が他者側の精神へと等化の方向を持ち、元止揚に人間の内面側から関与を行う次元。思形はψ2~1(物の厚み)、4~3(一つの物の表象化)、6~5(無数の物の表象化・自己中心化)、8~7(集団意識の表象化)というように、偶数系先手となり、人間の内面に付帯質(物)を意識化させる。視線が左右方向へと回転し、時間感覚が発生し、同時に対象意識(表象化)が確実化してくるということ。7歳~14歳の間に出てくる空間。ここでは意識は左右軸で働いている。
精神分析的には、感性は想像界、思形は象徴界、元止揚は現実界に対応していると考えられる。
さて、ここに示した次元観察子ψのケイブコンパスでは、この先にさらにψ12~11(自己意識形成の領域)、ψ14~13(死の領域)という領域が配備され、人間の意識次元というものの全体を形作っている。総体の外面(人間の元止揚)を構成するψ1~8を母体にして意識の流れが二重の膜を作り、人間の元止揚の周りを周回するイメージだ。
さて、こうした構成から見ると、人間の元止揚(ψ1~8)とは知覚に上がってくる「物」のイメージに近いことが分かる。人間の意識はモノの領域に侵入しようと周回を繰り返すのだが、偶数系が先手で働いているために(受動的な存在だということ)、物そのものの本質の世界には侵入することができない(哲学では「物自体」と言います)。
この、「入りたいのだけど入れない」という形で、意識が反復を行っている調整領域が、僕らが素粒子と呼んでいるものだとヌーソロジーは考える。つまり、総体の外面と総体の内面を繋いでいる捻じれのブリッジのようなものだ。思考が総体の内面に侵入を果たせば、それは、総体の外面では「原子」に見えているもの生成因となる。
この物質と精神の一体性モデルであるケイブコンパスが意味しているのは、ヌーソロジーの宇宙観が充足理由律で満たされているということだ。つまり、宇宙には何一つ理由がないものは存在していない。すへでが密接に連携し合って一つの生命のようにして生きている。
このあたりは最近注目を浴びている、メイヤスーらの新実在論系の哲学とは真反対の論立てになっている。ヌーソロジーの場合、存在が一義的という意味ではやはりドゥルーズ的でもある。精神はすべて連続的に開かれた全体として活動している。そういうイメージだ。
あえて、メイヤスーらの哲学に対比させるなら、偶数系の次元観察子が先手で活動する人間の意識世界は確かに相関主義的世界となるが、その相関主義的な意識の構造自体が物自体の始まりの部分となっているのである。
彼らの実在論では物自体は否定されるが、ヌーソロジーにおいては「物自体」は厳然と存在する。物自体とは「総体の内面」に当たると考えるといい。
11月 19 2018
美しきスフィンクスへと変身していくために
今回は現代思想がらみのお話。
ポストモダン思想の中核を担っていたドゥルーズ=ガタリ(以下、D=Gで記す)の思想は民族主義の再燃による保守化の動向とともに過去のものとして忘れ去れられつつあるが、ヌーソロジーとは驚くほど相性がいい。ガタリのエキセントリックな部分はあまり好きじゃないが、背後で援護射撃するドゥルーズが加われば、このデュオはやはりゲッコー兄弟のように強力なのだが、これにヌーソロジーが加担すると、超人ハルク並になる(笑)。その、あらましを少しだけ紹介しておこう。
彼らにとっての宇宙的無意識の流動場とも言える「器官なき身体」は「人間の元止揚」=ψ8~7、人間の欲望を作り出す欲望機械は「人間の感性」=ψ10、その欲望を抑圧するように働くパラノイア機械は「人間の思形」=ψ9に当たると考えていいだろう。
続くψ12~11(ヌーソロジーでは反定質と反性質)は、D=Gにとっては「独身機械」というものに当たり、D=Gに拠れば、この独身機械の領域に資本主義の「脱コード化/再コード化」のシステムがプラスされてくるとしている。
D=Gが説くこのような無意識構造の理論に空間的なトポス(空間の中にこれらの構造を見せるということ)を与えるのがヌーソロジーの役割ではないかと強く感じている。つまり、私たち人間の意識を作っているアプリオリを空間上に浮上させるのだ。
そして、「それが素粒子のシステムになっている」というのミソだ。つまり、人間の無意識構造と素粒子構造が一致を見るということがハッキリしてくれば、まさに、主客一致の意識領域が人間の前に開示することになり、人間が現在持っている世界認識は、その根底から変わっていかざるを得なくなる。
グローバリズムと反グローバリズムが衝突し合う今の時代は、すでに観察子構造がψ12~11からψ14~13の境域へと向かいつつあることを意味している。OCOT情報にいう「人間の最終構成」だ。ψ14はネグリ=ハートの「帝国」と呼ぶものに当たるが、ψ13の方は「※マルチテュード」と言うより、もっと異質なものでないといけない、というのがヌーソロジーの主張。
※ネグリ=ハートは「現在のグローバルな主権と資本主義の支配下にいるすべての人々」のことを〈マルチチュード〉と呼び、この〈マルチチュード〉こそが〈帝国〉に対抗する主体となる」―と言っている。
それは、D=Gの表現を借りるなら、再び、「器官なき身体」の内部に侵入を果たす民衆のことを指すと言っていいのではないか。ドゥルーズの言い方なら、潜在的なものの反-現実化を実行する「やがてやってくる民衆」というやつだ。ヌーソロジーが現在行っている「顕在化」の思考作業はその民衆の作業の一環に当たると考えている。これはネグリ=ハートの言うような政治的闘争は生み出さない。もっとメタなものだ。
資本主義機械のベースに当たるパラノイア機械は集団幻想を作り、欲望機械は個体幻想を作り出している。D=Gのいう「器官なき身体」は、集団か個かの葛藤から抜け出た方向性で活動している。もちろん、今の僕らがその世界を見ることは不可能だが、少なくとも、それを見出す方向に思考を転回させることが重要。
ヌーソロジーからの分析だと、D=Gが語る「器官なき身体」というのは「物自体」の世界と言っていい。いわゆる主客未分離の即自的世界だ。欲望機械はそこに戻ろうとして意識を方向付けているが(感性=ψ10)、その欲望に禁止の抑圧をかけてくるのがパラノイア機械としての人間の思形=ψ9だとイメージするといい。
この構造は、そのままフロイトの〈パパ-ママ-ボク〉のオイディプス三角形の関係に当てはめることができる。ボクは抑圧されるボク(自我)と抑圧から逃れようとするボク(エス―真の主体)の二つに分断され、意識は絶えず双方の間を反復させられている。こりゃ苦しいぞ、おい(下図下)。
反転した時空(ケイブコンパスのψ5の領域)をカタチとして認識することがいかに重要な意義を持つかがこの配置図からも分かるだろう。観点が球面を起こし、外的中心を見出すことは無意識の主体の位置を発見することに等しいわけだ。この発見がボクをオイディプス的体制から解放させる契機となっていく。
かなり説明を省いて書いたので、分かりにくいかもしれないが、ヌーソロジーは歴史発達や心理発達についても予想だにしなかった角度から繋がってくるはずだ。乞うご期待!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: OCOT情報, ケイブコンパス, ドゥルーズ, フロイト, 素粒子