3月 18 2014
ミューズたちも舞い降りている
友人の尾崎さんからナターシャ・グジーさんというロシア女性が唱っている「千と千尋の神隠し」の主題曲「いつも何度でも」のビデオを紹介された。歌声も素晴らしいのだけど、曲の歌詞を改めて見て少しびっくり。
こうした純朴な詩は自分の狭隘な趣味から言えば好みじゃないのだけど(笑)、ナターシャさんのルックスも相まってか、古代ギリシアから舞い降りたミューズの歌声に聞こえた。
ゼロになるからだ。それを充たすこと——。
歌は5分30秒あたりからデス。
「いつも何度でも」
作詞/覚 和歌子
作曲/木村 弓
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心躍る 夢を見たい
かなしみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える
繰り返すあやまちの そのたび ひとは
ただ青い空の 青さを知る
果てしなく 道は続いて見えるけれど
この両手は 光を抱ける
さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう
かなしみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっとうたおう
閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される
はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ
海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに みつけられたから
[youtube id=”d4Kijkkz4f0″ align=”center”]
3月 25 2014
共通感覚と逆-共通感覚
奥行きと幅の差異はこれからの時代において精神と物質の差異と見なされるようになるだろう。わたしたちの共通感覚は幅の観念の支配で成り立っている。この共通感覚が悟性、感性、理性のすべてをコントロールしている。要は自我意識の骨格を作っているということだ。
奥行きはそれとは反対に逆-共通感覚をもたらす。すべての人の中に眠っているのだが、それが共通なものになり得ていない未知の感覚のことである。真っ先に上げられるのは、純粋な奥行きにおいて世界を見るとき、主体は不動の存在であるということ。これがまず一つ。
二つ目は奥行きには無限の過去が「今」という名で畳み込まれているということ。つまり、純粋な奥行きは空間と時間の延長性を持っていないということだ。このような奥行きが持った特性が先行する空間が物理学では時空の一点一点に張り付いた単位円、もしくは単位球面という形式で表現されている。
逆-共通感覚から見れば、これは話が逆で、単位円、もしくは単位球面上の一点一点に時空がくっついているのだ。君がどこか一点を見る。そこから時空が広がる。君の視線は純粋な奥行きなので、その時空の中にはない。。そう考えればいい。
もし、君がその視線を時空の中に落としてしまえば、君は即座に単なる物質的肉体と化す。時空の中で動いていると理解されているのは単なる物体としての肉体にすぎない。何度もいうが精神的実体としての君は動いてはいないのだ。
もちろん、身体内部から感じとられる運動感覚というものがある。これは動いている。しかし、この運動は物体の運動とは全く異なる次元のものである。この運動は4次元時空上のものではなく、前後/左右/上弦を軸とする身体空間における運動である。これは内部空間である。
現在の人間の共通感覚はは幅(延長感覚)に支配されて、奥行きの次元を基軸とする身体空間(強度的空間)が全く見えなくなっている。身体空間はシュタイナーの言葉を使えばおそらくエーテル空間である。その構造は奥行きの即自性において太陽と直結している。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: エーテル, シュタイナー