6月 26 2014
NOOSOLOGY VS STEINER(ヌーソロジー宇宙学VSシュタイナー神秘学)
ずっと等閑にしてきたヌーソロジーとシュタイナー思想の比較、統合の作業にようやく重い腰を上げて取り組み始めました。ヌーソロジーの構築だけでもホンマ大変な作業なのに、ここにきてシュタイナーの思想を合流させようとするのは無謀な試みのようにも思われるかもしれませんが、ヌーソロジーをよりふくよかな思考体系へと成長させていくためにはこの試みは避けては通れない。泣きそうですが、やらにゃアカンのです。
で、なぜ、シュタイナーなのか、ということに関して一言。僕自身、1990年代からOCOT情報解読のためにいろいろなオカルティズムを探っていたのですが、その中でOCOT情報に最も近接しているのがシュタイナー思想だったからです。この二つはほんとうによく似てるんです。一言でいってしまうと高次元知性体の思考的側面と感覚的側面の関係のような感じ。。シュタイナー思想が霊的世界の風景を色彩豊かな細密画で描いたものだとすれば、OCOT情報はその世界の構造の設計図を綿密に展開しているといった感じでしょうか。とにかく高次元の霊的空間における内容と形式を互いに補い合っている関係にあるように感じます。ですから、この二つの思想がうまく合体を果たせれば、クラルテ(形式の明晰性)おいても、そしてエクステンド(内容のふくよかさ)においても、従来のいかなる霊的宇宙論にもまさるエキサイティングな世界風景が展開されるという直感が僕にはあります。
ただ、両者には幾つかの相違点があるのも事実です。それは輪廻に関する問題と宇宙の時間スケールの問題。シュタイナー思想において魂の輪廻の問題は根幹的な位置づけにありますが、OCOT情報ではあまり重要視してはいません。というか「個体の輪廻といったものはない」という言説さえ見られます。というのも、OCOT情報によれば人間の個体化によって発芽してくる自我とは物質認識(世界の表象化)と同じ意味を持っており、表象化を逃れる意識が出現してくれば、自我という概念自体が意味を失くすと伝えてきているからです(このへんは僕が個人的に研究しているドゥルーズ哲学ともとてもよく似ています)。
もう一つ、宇宙存在の時間的なスケールについてですが、シュタイナー思想は七つの惑星紀という一体どれほどの年月か分からなくなるような長大な時間をベースにしていますが、OCOT情報ではそのような気が遠くなるような時間尺は登場してきません。せいぜいマヤ暦でいうところの四つのフナブク・インターバル(彼らのいう脈性観察子の世界に当たります)に当たる41万6千年というのが最長です。その意味で言えば、存在の真の起源の問題に関してはOCOT情報はそれほどの深い射程を持っていないとも言えます。もちろん、OCOT情報自身はそうした41万6千年単位の時間のホロンがまた無限数に渡って存在していると伝えてはきていますが。。
いずれにせよ、シュタイナー思想とヌーソロジーの内容に関して意義のある擦り合わせを行っていくためには、存在構造の巨視的な部分と微視的な部分、双方の比較、検証が必要となりますが、とりあえず巨視的な部分に関する擦り合わせは、シュタイナーにしろヌーソロジーにしろ、僕らの現実感からすればあまりに茫洋とした概念同士の比較にならざるを得ないので、現時点では大して意味を持つ作業にはならないのではないかと踏んでいます。
微視的な部分の擦り合わせとして重要に思われるのは、シュタイナーが人間の構成要素として掲げる物質体・エーテル体・アストラル体・自我という諸概念についてでしょうか。ヌーソロジーではこれらの構造は次元観察子という概念の中で素粒子構造と対応させて展開していきます。エーテル体やアストラル体が素粒子のことだったなんて聞くと、「えっ〜?」と疑念の声がたくさん聞こえてきそうですが、魂と素粒子とのこうした概念結合に対して、シュタイナー学徒の皆さんがどういう意見を持たれるか、楽しみなところです。
ヌーソロジーの立ち位置から言うと、シュタイナー思想を真の精神科学へと発展させていくためにはこれらの霊学的な諸概念が持った実体論的イメージを無色透明の空間的な関係論として組み立て直す必要があると強く強く感じています。つまり、わたしたちの自我意識がシュタイナーが言うような諸要素によって構成される必然性を素粒子が内包している高次の空間構造として明確に指し示す必要がある、ということです。既存のシュタイナー関連の本を読んでも、シュタイナー自身が古代の秘儀的内容を無条件に継承した部分とシュタイナー自身の霊視や論理的思考の部分の双方が言わばランダムにミックスされていて、従来の宗教主義のような臭いを多分に漂わせている部分があることも事実です。この部分をもっと洗練させないと人智学を精神科学として打ち立てるにはまだ不十分と言えるのではないでしょうか。
もちろん、古代から秘密裏のうちに伝承されている叡智が誤ったものであるとは言いませんが、様々なスピリチュアリズムが玉石混淆で乱立する今という時代の中で健全なかたちで霊的世界にわたしたちの思惟のピントを合わせていくためには、やはり多くの人たちとの間に相互了解が取れるものでなければなりません。霊的世界を語るにあたっても旧態依然とした宗教主義的な超越的なもの言いはできるだけ回避し、魂の世界を知性的に語るための新しい概念の創出が必要なのです。その点から言えば、シュタイナーが示した霊学的な諸概念はまだまだ21世紀のこの時代に新たに洗練されるべき余地を残しているように感じられます。
さてさて、前置きが大変長くなってしまいましたが、こうした作業に打って出る公式での最初の試みとして、8月20日の日曜日に「ヌーソロジー宇宙学VSシュタイナー神秘学」と称して、ヌーソロジーの特別イベントをやることになりました。
ゲストに東邦大の大野氏(医学博士)と元経産省官僚の福田氏をお招きします。両方ともシュタイナー研究歴20年以上という猛者で、ヌーソロジーにも大変、関心を持たれている面々なので、シュタイナー思想とヌーソロジーのガチでの擦り合わせがそれこそ火花を散らすような形で行われるのではないかと僕も期待しています。ヌーソロジストはもちろんのこと、シュタイナー思想にご興味がある方も、是非、ご参加いただければと思います。
7月 1 2014
今日は哲学の話です
GWは中世哲学の世界に浸っていた。坂部恵の『ヨーロッパ精神史入門』、山内志朗『普遍論争』、八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』。この三冊でヨーロッパの中世の思想がどういうものであったか、そのアウトラインがおおよそ分かった感じがした。いずれも良書なので関心がある方は是非、読まれてみるといいです。
ヨーロッパの中世というのはキリスト教のせいでむっちゃ暗〜い時代だったかのように思われているのだけど、三冊の本を通読してみて、天使的思考が死滅した現代という時代の方がよほど暗い時代ではないのか、という想いがよぎった。
ここでいう天使的思考というのは存在の円環の思考のことと言ってもいい。神と人間の間には天使という媒介を通じて一つの反復がある、という存在論的思考のことだ。こうした思考は現代ではごく一部の哲学者の仕事の中にしか見られなくなった。代表的なラインはニーチェ→ハイデガー→ドゥルーズという系譜。哲学の言葉でいう「存在論的差異」をめぐる思考というやつだ。「存在論的差異」というこのいかめしい用語は、OCOT情報がいうところの「人間の外面の顕在化」に相当している。
存在論的差異。。とても難解な言葉に聞こえるかもしれないが、これは一言でいえば「あるもの」と「あること」の違いのことをいう。「あるもの」とは、たとえば「ここに茶碗がある、本がある、財布がある」というように、この世界に満ちあふれている多種多様な無数のモノのことをいう。一方で、これら無数のモノは「ある」という意味においては共通しており、つねに「ある」という一つの状態を指しているのがわかる。このように「ある」というかたちで一つに統一されている諸事物の状態のことを哲学者たちは「存在の一義性」と言ったりもする。
我はありてあるものなり(エフイェ アシェル エフイェ)——というユダヤの神名が示す通り、「あること」における一義性は一者としての神と言い換えてもいいような何かだ。一者なる神は存在(あること)のこの一義性として世界に出現しており、あるものたちの差異を多義性として従えている。つまり、あるものたちが持った様々な差異は、「ある=存在する」という同一性のもとに従属した差異でしかないということ。
では、この「あること」の一義的はいかにして「あるもの」の多義性をそのうちに含むようになったのか——これは神がいかにして世界を創造したのかという問い立てに等しいものだが、ニーチェ、ハイデガーの思考の系譜を持つドゥルーズの問題設定もここにある。
そこでドゥルーズは次のように考えるのだ。「ある」ということの同一性に従属しない差異がある。つまり「あること自体に対する差異」である。この差異について思考することが存在論的差異の思考というものだと考えていい。
この思考は存在そのものに対する差異を思考するのであるから、当然のことながら「あること=一者」から逃れる思考ということになる。そして、ドゥルーズはここに生まれてくる差異を「なること」、つまり、生成=創造として考える。ここはむちゃくちゃスリリングなところ。つまり、創造とは存在という同一性に従属する諸々の差異についての思考ではなく、存在そのものから逃れる差異を作り出すことによって初めて達成されるということだ。
ここには、ヌーソロジーと同じ「反転」のひらめきがある。存在とはあるものすべてをその内部に包括し、あるものすべての差異をその中に従属させているのであるから、いわばこの上なく最大のものだ。しかし、その最大としての存在に対する差異が、翻って今度は存在に従属する最も極小の差異となる——ドゥルーズが展開している差異の思考はそうした性格を持っている。
さて、存在に対する差異とは何だろう。ハイデガーはそれを僕たち人間の存在の在り方だと考えた。人間は確かに「あること」の範疇だ。しかし、「あること」はすべて人間を通して現れてくるものでもある。ということは、人間とは「あること」を半ば超え出ている存在とも言える。「あること」に対するこうした人間が持った差異をここでは「いること」と言い換えてもいいかもしれない。観察されるものは「あるものとしてある」が、観察する人間は「いるものとしている」のだ。このように「あるもの」とは差異を持った人間という存在の在り方をハイデガーは「現存在」と呼んでいる。「いるもの」はもはや単なる存在者ではなく存在の一部を為しているということだ。
現代人の世界観からすれば、さすが哲学者というのは深遠な考え方をするものだと思うかもしれない。しかし、このような考え方の基礎は実は中世哲学では半ば常識だったと言っていい。というのも、中世では人間の個体というものが天使の最低種と見なされていたからだ。神は宇宙を光の流出において生み出した。そして、その流出の流れの最下部に位置しているのが人間であり、人間はそこから光を再び上昇させ、神のもとに環帰する。人間は存在世界全体における光の反射板の役割を担っているのである。
こうした裏事情が見えてくると、ニーチェもハイデガーもドゥルーズも取り立てて難解には感じなくなる。「あること」からの離脱。それが人間が本来、存在する意味だということを彼らは確信して、それを哲学の使命だと考えているということだ。
「いること」が「あること」の勢力から逃れ、「あること」から離脱するとき、それは「なること」へと変身を果たす。そして「なること」の始まりは次なる「あること」の中においては最も微小となる「あるもの」として立ち現れてくることになる。何と美しい思考だろう。僕がOCOT情報の中に目撃した思考も、また彼らの思考と全く同じこのような「対称性の美」だった。
「なること」の思考は「あること」ではなく「いること」から始めなくてはならない。その思考が立ち上がる場が僕がいつも言っている「奥行き」であることは言うまでもない。奥行きは「いること」を保証している時空(あること)との差異であり、それは時空の内部においては最も微小な部分にあたかも「あるもの」のようにして息づいている。それが素粒子というものである。
巨大な差異の波が押し寄せてきている。反復不可能な反復の波が押し寄せてきている。OCOT情報はこのことを「まもなくオリオンが方向を回転させる」と表現していた。幅の世界の終わりのあとに奥行きの時代がやってくる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, オリオン, ドゥルーズ, ニーチェ, ハイデガー