7月 11 2014
量子力学は霊的空間へアクセスするための最も健全な入口
量子力学では粒子の位置を示す空間と運動量を示す空間はオモテとウラのような関係にある(前回示したポジ空間とネガ空間の関係と同じと考えていい)。相互に反転しているということだ。こうした描像は通常の3次元世界ではイメージすることができない。しかし、反転した空間のイメージが作れれば、この量子空間のナゾもスムースに理解可能になってくる。
位置空間と運動量空間とは、それぞれ僕らが空間を幅を基準にして見るか、奥行きを基準に見るかの違いから来ていると考えていい。幅で見たとき位置概念が生まれ、奥行きで見たときに運動量概念が生まれているということだ。
通常の空間認識ではこうした幅と奥行きの差異が全く考慮されていないので、量子力学がもたらすこのような物理的状況が全く描像できないでいる。つまり、量子力学的空間とは外在世界ではなく、主観(内在)としての人間の知覚野の構造として考えると、スムーズな理解が可能となるということ。
量子力学の世界は波動関数ψをベースに構造化されているのだけど、時間を考慮しなければ、この波動関数ψ(x)は「位置の主観的認識」の働きと考えればそれで十分説明はつく。目の前の空間に「点」をイメージしてみよう。奥行きを虚軸、幅を実軸とすれば、3次元性の中でその「点」の位置を規定するためには、その点を取り巻く三つの直交する回転が必要となる。それが波動関数だ。点を巡って、ぐるぐると認識の視点が回転している様子をイメージするといい。量子力学で粒子の位置が確率でしか表せないとされるのも、こうした認識のための回転が位相因子として「点」の周りを取り巻いているからにすぎない。量子とはこうした認識の射影なのだ。
確率解釈は波動関数ψの複素共役ψψ*によって導き出されるが、これは自他の認識空間が相互反転しているので、「点位置を客観へと落としこむ」という意味合いが数学的形式の中に表されているにすぎない。僕らは実数で表されるものだけを実在だと思っているから、こういう形式を取ってしまうということだね。
点認識には常に直交する奥行きと幅との回転が伴っているということが分かってくれば、波動の重ね合わせの原理もそんな難しい話じゃなくなる。主観が複数の点概念を持っている状態の認識が表れたものと言えるだろう。「どちらのスリットを粒子が通過したか」なんて実験も、スリット自体の位置認識が通過する粒子の本質的意味なのだ。だから、無数の点が集まった直線に対する認識ともなれば、それこそ無限数の波動関数の集まりが必要となってくる。ここに表れるのが「波動関数自体の回転」=U(1)群という次元だ。何の事はない。これは主観が自分の周囲に空間を認識している状態である。これは物理学的には電磁場とされてたりもしている。
OCOT情報では電磁場には内面性のものと外面性のものがあり、人間が科学技術で用いている電磁場はほとんどが内面性のものだと言っている。これはおそらく人間の距離概念による空間把握の力と言い換えていいように思う。空間を距離で埋め尽くし、その一点一点を座標点として概念化している力そのものが内面の電磁場の本質だということだ。物質化意識である。
今まで何度も訴えてきていることだけど、奥行きと幅を差異化させて空間を思考しよう。それだけで、3次元認識はガタガタに壊れていくし、自己は宇宙的生成の中に優雅に溶け込んでいく可能性を持つ。
物質の土台を支えている量子論の世界がU(1)が二つ組み合わさってできる群SU(2)/複素2次元ユニタリー群をその構造的基盤に持っているのには理由がある。それは宇宙が自己と他者の魂を苗床にしているからである。人間における自己と他者という二つの主観の関係は宇宙が生まれるための絶対条件であり、かつ、生まれたあとの絶対的帰結でもある、ということだ。科学はこうした人倫的思考をその内部に取り込む時期に来ている。もう少しだと思うんだけど。。。なかなかこれがねぇ〜。
この人倫的物質論においては、虚軸=奥行きは記憶素子のようなものとして解釈されてくるだろう。複素空間は回転を多重化させ多次元化し、巨大な持続構造体を作っている。複素空間における虚軸に持続が潜んでいるとするなら、実軸には想像力が潜んでいると言っていいかもしれない。空間の本来とはそれそのものが霊であり生命だということなのだ。
「なぜ、そうなっているのか」と突っ込んでも、たぶんそこには答えはない。そうだからそうなのだ(笑)。こうしたこざかしい疑問は自らが複素空間の構造体へと変身を果たしてから考えたほうがいい。とにもかくにも空間を複素化させていくこと。これは、現代だからこそ出現してきた、霊的空間にアクセスするための最も健全な方法なのである。
「健全な思考と健全な感受性だけでも、高次の世界から来る真の認識内容のすべてを理解できるということ。この理解をもとにして確固たる土台を築くとき、すでに自分の霊眼を開くための重要な歩みが始まっているということ」
シュタイナー『神智学』p.028
7月 15 2014
モノとタマの重なり
『妖怪から学ぶ世界の不思議』 ——甲田博士がモノとタマを巡って妖怪論のレクチャーをするようだ。案内文を読んでるとヌーソロジーの視点ととても関係がありそう。
http://kokucheese.com/event/index/131699/
※6/1イベント終了
【甲田博士のレクチャー紹介文】私たちの祖先は、モノ(物)を単なる”物質”だとは考えていませんでした。モノは物質であると同時にタマ(霊)であり、時に不思議な作用をおよぼすものと考えていたのです。そしてこのタマとモノはちょうど裏側から重なるようにして存在していると考えてきたのです…。
タマとモノがちょうど裏側から重なるように存在していた——このへんはOCOTが伝えてきたことと全く同じことを言っている。OCOTは人間の意識が覚醒を起こすと「モノは垂質に見えてきます」と言っていた。OCOTに拠れば、「垂質」というのは観測者の周りに広がっている空間のことを指すらしいのだが、しかし、一体なぜそんなものがモノと同じものに見え出すと言うのか。
こうした認識にたどり着くために空間に対してどのような見方をとればいいのか、それこそ長い年月をかけていろいろな思考を試みてきた。古代の日本人たちが自然に感覚化していたタマとモノの重畳。現代人がこの感覚を奪回するためにはおそらく純粋思考以外にその方途はないだろう。
身体から広がる空間には実は二つの種類がある。一つは後ろ方向を半径として回転させて生まれている空間、もう一つは前方向を半径として回転させて生まれている空間である。この二つの空間は互いに反転しているのだが、現在の人間の空間認識には後ろを半径としたそれしか認識に上がっていない。
OCOT情報がこここでいっている「垂質」とは「前方向を半径として回転させて生まれている空間」のことであり、後ろ方向のそれは「垂質の反映」と呼ばれる。人間は他者に見られることによって自分の周囲の空間を概念化しているので、自身に実際に見えている空間側(前のそれ)は認識からこぽれ落ちてしまうのだ。
この認識からこぼれ落ちてしまった「前」の空間こそが実はOCOT情報がいう「垂質」であり、僕らの中でうごめいている霊の実体である。僕が「奥行き」こそが人間の実存の場であるといつも言ってるのも、この前=奥行きにこそ僕ら一人一人の純粋持続(記憶が把持されているところ)が息づいていると直観しているからだ。
言うまでもなく、後ろを半径とした球空間と前を半径とした球空間は互いに反転している。人間の肉体はその意味ではこの相互に反転する空間の間で蝶番のような役割を果たしている。僕らが外在と呼んでいる世界は言うまでもなく「後ろを半径に持つ球空間」の方である。肉体の移動や運動はこの「後ろに半径を持つ球空間」の中で概念化されている。
一方、「前を半径とする球空間」において身体は全く動いていない。というのも、何を見ようが、どこに赴こうが身体にとって前は常に前でしかないからだ。
観点において自らが自転するとき、確かに前は球状の空間を作り出しているイメージがある。しかし、このイメージだけではOCOT情報のいう「垂質」を作り出すことはできない。それではまだ「垂質の反映」のイメージがまとわりついているのだ。垂質と垂質の反映の関係は互いに反転しているのであるから、この自転する観点を球面化させ反転させたときに垂質の本来のカタチというものが顕在化してくることになる。垂質が「霊」であるのならば、その球面で覆われた球空間こそが、すなわち僕らの「霊」と呼んでいいものになるだろう。
この段階までイメージできてくれば、最初に書いた「タマとモノの重なり」が見えるまでもう一歩というところまで来ている。モノは空間的にも時間的にも局所的な存在だが、タマは非局所的存在だ。人間がモノを認識できるのは、こうした無時間・非局所としてのタマの重なりがあってこそなのだ。
モノが垂質に見えてくる時代がもうすぐやってくる。それは同時に魂が肉体から離れ「霊化していく」ことを意味している。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報