5月 12 2014
目の前には二種類の空間が二重化して存在している
時間と空間の発生の構造的起源はアイソスピン空間における回転の生成子σ2(シグマ・ツーと読みます。パウリ行列の2番目のもの)にあるように思われる。σ2は複素2次元空間におけ実平面の回転、虚平面の回転をそれぞれ作り出すが、前者が3次元空間、後者が時間の生成とそれぞれ関係しているのではないかと予想している。
奥行きを虚軸、幅を実軸を見なすならば、複素2次元空間における実平面の回転とは自己と他者が幅を共有した認識の状態を、同じく虚平面の回転は奥行きを共有した認識の状態をそれぞれ意味すると考えられる。これは分かりやすく言えば、対面する状態にいる自己と他者が、共に左右方向からの視線を第三の視線として共有し、本来の奥行きに幅を与えている状態として解釈することができる。つまりは、左右からの視線によって奥行きに幅を与えている、ということの意味だ。
このことは何を意味するかというと、客観的世界においての時間軸の本質は左右方向にあり、空間軸の本質は前後方向に生まれているということだ。一言でいうなら、自己と他者、互いが横からの視線を共有することによって、奥行きに幅を作る——このことによって時間と空間が発生している、ということになる。
こうした構造をOCOT情報に照らし合わせると、とても面白いことが分かってくる。OCOT情報では左右からの視線の共有は「位置の等換」と呼ばれ、それは「思形」という客観の力を生み出すとされる。一方、それに反映される力は「感性」と呼ばれ、こちらは「位置の融和」によって主観を構成する力の意だ。
このことから、時間が客観の条件となり、空間が主観の条件となっているということが言える。僕らは客観的時間などという言葉を無反省に使ったりするわけだが、実は客観的世界というものは時間がないと生まれないのだ。「空間が主観の条件になっている」というのは、左右からの視線によって幅化してしまった奥行きが本来の奥行き(虚軸=持続)を感取していると考えるといい。僕らは前にも幅を見ている。その幅の下に実は虚軸が隠されており、そこに記憶の場所としての純粋持続が働いているということだ。
人間においては感性が先行し、思形がそれを後追いするので、先に空間によって主観が形成され、その後に時間認識が発生してくることになる。このことは人間の意識発達を考えれば容易に理解できるだろう。幼児はまず主観的空間を形成し、それから客観的世界を意識に構成し始める。ドゥルーズ的に言えば、前者が受動的総合、後者が能動的総合に当たる。
超越論的なもの(人間の無意識構造=魂の構造)を思考していくためには、まずは目の前で展開する世界の基盤に二通りの場所の区別をしっかりとつけなくてはならない。一つは従来の時間と空間。もう一つはそれらの起源とも呼べる複素2次元空間。意識の基礎はこの二つの場所性の二重化によって成り立っている。
現在の人間(科学的思考)は時間と空間だけでしか世界を見ていない。丸々半分が欠如しているのだ。この見方から類推されている世界観は全くデタラメな世界イメージをわたしたちに提供していると言っていいだろう(ビッグバンや進化論等)。これからの時代は主観的世界をその底辺で支えている複素2次元空間の認識を取り入れることが絶対不可欠になる。それによって哲学と物理学は融合を果たし、主体と客体が一体となってダイナミックに脈動する、真の宇宙の姿が見えてくることになる。
これらの内容について今週日曜日に行われるNOOS LECTURE 第6回でNCやケイブコンパスの構造を通して詳しく解説する予定なので、参加される方は予習がわりに要チェック!!
ということで、ヌースレクチャー2013シリーズ IN 東京 第6回の最終告知です。
http://noos-academeia.com/blog/?p=1636
5月 16 2014
天使たちの出現を待ち望んで
グノーシス的思考のみが本来、思考と呼べるものだと思っているのだけど、人間の歴史においてここまでこの思考の系譜が隠蔽され、粉々に砕け散ってしまっているのは何故なのだろうといつも思う。
グノーシスに想いを馳せる者はいつの時代にも異端の烙印を押され、ときに狂人と呼ばれる。しかし正気であることがもし無自覚に法を信じる者のことを指すのだとすれば、正気には思考する力などない。進入禁止の標識に素直に従う限り、標識の向こうを知ることは永遠にできないということ。
グノーシスというのは光の二項論理における無限の展開とも言える。一方に光の贈与があり、他方に光の受容がある。光の受容者はいかにして光の贈与者へと生成していくことができるのか、これがグノーシス的思考が見つめつづけている問題だ。
受容者としての光とは当然のことながら「受肉したロゴス」としての物質的肉体のことを言うのだろうが、ここにはロゴスの完成点と肉体という開始点が重なり合って存在している。キリスト教徒の言う「インマヌエル(われら神と共にいる)」もまたこの重合を根拠としているのだろう。
同じ場所を占める神と人。しかし、その存在の在り方は当然のことながら大きく違っている。それはたぶんデカルトがいう思う我とある我以上に違っている。グノーシスの思考はこの同じ場所を占めながら遥か無限の彼方に消え去ってしまった神との距離を意識するところから始まる。
そこに距離が現れるからには、そこには媒介がなくてはならない。その媒介者たちが聖霊と呼ばれたり天使と呼ばれたりするわけだ。だから、聖霊や天使は神と人を媒介する流動のロゴスに関わる。グノーシスはこの流動性を巡って思考するのだ。
プラトン的に言えば、この存在のアイオーン的円環を巡っての忘却と想起(アナムネーシス)。ルーリアカバラ的に言えばこの生命の樹を巡っての容器の破壊と再生。いずれもグノーシスの表現形式である。
こうした思考を持つ者たちを、異端者や狂人へ仕立て上げ、ときに抹殺までしてきた残忍な精神性を僕ら現代人もまた多かれ少なかれ受け継いできているということ。また、それが人間が正気と呼ぶものの体制であり続けてきたということ。このことを今一度、自覚する必要があるのではないかと思う。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: グノーシス, ロゴス, 生命の樹