8月 26 2014
魂の奪回——失われた真の対象を取り戻すために
僕らが物質と呼ぶものは飼いならされた奥行きにおける産物である。「飼いならされた奥行き」とは、もちろん幅化してしまった奥行きのことだが、この奥行きの幅化は本来の奥行きの左右方向への遷移(左右からの内的視線の介入)によって生じている。奥行きが幅になるとき、幅は同時に奥行きへと変わる。
奥行きを虚軸、幅を実軸とするなら、これは虚軸と実軸の相互変換であり、このような変換はパウリ行列のσ1の特性になっている。空間の中には事実としてそのような変換機構を持つ仕組みが存在しているということだ。
奥行きの幅化は当然のように対象と主体を引き離す。これによって本来奥行きの名のもとに主体と一つに溶け合っていた物質は主体にとって「失われた対象」と化す。引き離された主体はその失われた対象のもとに帰ろうと欲望するが、左右からの視線がそれを許さない。ダブルバインドがここに生まれる。
上位の審級としての超自我の視線。そのもとに生じる幅化した奥行きの上で主体は文字どおり肉体を持った自我となり、下位の審級として飼いならされる。こうした構図からも物質という概念がいかにオイディプス的産物かが分かるだろう。
超自我、自我、時間、空間、物質。そして、あの悪名高きシニフィアン。。これらはすべて一つの権力のシステムとして連動している。このシステムに徹底したレジタンスを仕掛けることが必要だ。戦場は常に内在野だということ。それを忘れないようにしよう。
8月 29 2014
メビウスの帯がその捻れを失うという出来事について
時間は客観の条件であり、空間は主観の条件である。時間と空間が延長として繰り広げられたものである限り、客観と主観もまたこの繰り広げの状態として出現してきている二つの次元にすぎない。繰り広げの前にあったもの、それを知ることが重要なのだ。
この繰り広げ以前に存在するより根源的な領域。この領域が象徴界(言葉の世界)と想像界(イメージの世界)の間に亀裂を入れている。いわゆるラカンのいう現実界というやつだ。
現実界とはドゥルーズの表現を借りるならば、「巻き込み」の領域である。これが数学的な形式としては複素2次元空間に対応している。uとdクォークが発生している基礎的な場である。自他それぞれの特異性が互いの共可能性を探り合いながら、交錯をくり返している場と言っていいだろう。
この場において自己と他者の互いの特異性は物理学的にはカイラリティーの保存(カイラル対称性)として記述されている。つまり、右手系か左手系かの区別だ。根源的空間においては自他の空間は互いに反転した関係で構成されているということだ。
しかし、互いが持ったこの差異はSU(2)の中の一つの回転(σ2がからむ回転)によって失われる。それによって自他それぞれが持った奥行きと幅の差異が等化され、両者における奥行きの共有と幅の共有が起こるのだ。そこに出現してくるのが時間と空間である。
向かい合う自己と他者を考えよう。本来の奥行きはこのとき見つめ合う視線の中にある。しかし、わたしたちは同時に左右方向からの視線も持っている。この視線の中に自他共有の奥行きが存在している。そのとき、見つめ合う自他相互の二つの奥行きは共有された幅へと変換されていることが容易に分かる。
ここに時間と空間が発生しているということだ。
モノの側面の像について考えてみるといい。実際にはそれは決して見えるものではないのに、あたかもそれが見えるかのように錯覚させている視線がわたしたちの内部にある。それが左右からの視線だ。それが物質や外界という存在を支えている本質力であり、時間の発生源になっている。
たとえば、何かに没頭しているとき、僕らが時間の経過を感じにくくなるのは、この左右からの視線の働きが弱まるからと考えればいい。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: ドゥルーズ, メビウス, ラカン, 奥行き