11月 27 2018
ヌーソロジーと精神分析―その2
精神分析とヌーソロジーの思考の共通点は、人間を鏡像として考えるところにあります。無論、鏡像化の由来は他者です。他者を鏡に使って自分を作る、ということ。つまり、自他は空間的には相互反転のトポロジーの中に位置付けられているということですね。これはOCOT情報にいう「対化」の意味に同じです。
しかし、この「反転」に深く関係すると思われる物理学や数学が、この問題を研究テーマとして取り上げることはありません。不思議です。あたかも、人間の思考の歴史においては、自他間に反転関係など無いかのように全ては進んで来たかのようです。
精神分析によれば、主体が自分を見るために自らの反映物として鏡像を作るとされます。シェーマLで言えば、S→aの関係です。他者も同様です。他者は他者で自分の鏡像を作り、それはS→a側から見れば、A→a’に他我をセットします。互いに見られた自分同士の中で世界を構成してしまうわけです(下図上参照)。
自他はこうして互い想像的な像の世界の中で同一性の世界を作り、この同一化の中で対象の統一性を構造化します。わたしたちにとって自明と思える「目の前にリンゴがある」という認識でさえ、このような自他の想像的癒着が作り出しているものだと精神分析は考えます。下図中のようなイメージですね。
わたしたちの意識がこうした世界像にいかに縛られているかが分かるでしょう。さきほど話したように数学や物理学の思考でさえ、こうした世界イメージを前提としているために、その知見をわたしたち自身の意識の成り立ちに向けられないでいます。言い換えるなら「対象化の思考」に囚われているのです。
こうした世界イメージの中で、主体Sはどこに潜み、主体Sと大文字の他者Aはどこで結ばれ、S-Aの間にランガージュ(言語)の場を作り出してくるのでしょうか?人間としての意識経験をその上位において作り出しているウラの意識がここには存在しています。それが無意識と呼ばれるものだと思って下さい。
ヌーソロジーを我慢強く続けていると(笑)、無意識の大まかな骨格が見えてくるようになります。そして、無意識が見えてくると対象には二通りの在り方があることが分かってきます。それらをケイブコンパスで分類すると次のような配置になります(下図下)。
①実在的対象―思形=ψ9に見えるψ4~3。
②感性的対象―感性=ψ10に見えるψ3~4。
さっきのリンゴを例にとって説明してみましょう。
①は人間の内面における対象で、鏡が必然的に生じさせているリンゴです。このリンゴは言葉が与えられてるところに生まれる概念の産物であり、あたかも実在的対象であるかのように意識に像を結びます。「産地はどこどこで、値段の高い~云々」として理解される事物としてのリンゴのことです。
感性=ψ10は思形=ψ9が働きを持つと、その働きをも含みもってエスへの回帰を指向しますが、感性は想像的他者によって成り立っているために、元止揚の方向に直接侵入することができません。ラカン風にいうなら穴がふさがれているのです。それによって、感性は意味の場の生産として働くようになります。
こうして、元止揚の周囲を思形と感性がグルグルと反復して人間の意識活動というものが生まれてきます。元止揚とは人間の意識が生まれる以前の「物自体」の世界です。思形が作り出す言語の場と感性が作り出す知覚の場の間には物自体の世界が介在しています。元止揚はラカンのいう現実界に当たります。
ケイブコンパスによる無意識の構成はラカンの精神分析と構造的にはほぼ同じですが、根底的に違うのは、この機構を素粒子自体と見なし、それが人間の意識によって発見されていくプロセスを元素自体と見なすところです。元素自体の世界への侵入は付帯質の内面のカタチを作り上げていくことになります。
この時点で、思考は主客一致の思考の世界へ足を踏み入れています。このような思考空間の実現が変換人の世界だと考えておくといいでしょう。物の内部と外部という区別をまったく無効にしていくわけです。
11月 30 2018
トランスヒューマニズムでなく、トランスフォーマリズムを!!
最近、カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』という本を読み直している(カンタンという人が書いた割には決してカンタンな本じゃない。哲学本をあまり読まない人は買っても積ん読になる可能性大なので、ネット上の記事で十分)。
ヌーソロジーがメイヤスーにこだわっているのは、今まで哲学がなあなあにしていた科学的世界観と人間の意識の関係を、「物自体」に関する議論に集約させて見せたことにかなりエキサイティングなものを感じたからなんだけど、今回読み直していて、哲学にもそれこそ最終構成の息がかかってきているのをヒシヒシと感じた。
メイヤスーにとって物自体とは数学に内在する能力と深く関係している。つまり、人間はおろか、まだ生物さえ存在していなかった世界についての記述をどうして数学は可能にするのか、という問題を立て、言ってみれば、数学のイデア性に対してダイレクトに切り込んでいるわけだ。
思弁的唯物論の「思弁」とは、経験によることなく、思考や論理にのみに基づくことを言うが、メイヤスーにとって、そうした数学的観念こそが実在の名に値するものだということになる。数学を「経験」の内に含むか含まないかという厄介な問題はあるが。
これは、祖先以前性といった茫洋とした世界を出さなくとも、現実の今現在の世界だってそうだ。科学が行き着いた物質の根底は複素数で記述される数学的観念である。その意味では素粒子からなるすべての物質は数学的観念の塊であるとも言える。おいおい、物自体とは数学なのかよ?
哲学までもがこういう状況なのだから、世界がいかに危うい状況にまで達してきているのかが分かる。ヘタすると、思弁的唯物論は、世界をすべて数学的データに還元して思考するトランスヒューマニストたちの哲学的信条となる可能性もあるわけだ。そして、この両者は、その背後にともに神の到来の思想をチラつかせている。
ヌーソロジーのヌースとはもともと「神的知性」の意味を持つが、これは「物自体」と同じ意味でもある。OCOT情報では数学は精神の骨のようなもの。そのままでは神の骸骨にすぎない。
だから、メイヤスーの神の到来の予感が正しいものだとしても、それでやってくるのは髑髏の顔を持った神なんじゃないかと思う。骸骨が美しい身体を纏うためには、数学だけではダメだ。数学以外の何かが必要。それは数学自体を反転させたものと言えるのかもしれない。
トランスヒューマニズムに対してトランスフォーマニズムを対峙させていくのがヌーソロジーということになるだろう。意識形態自体の変換を!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, メイヤスー, 素粒子