11月 26 2014
永遠的対象の幾何学
僕ら一人一人が経験している不動の奥行きは、時空においては、そのまま射影線となって、モノの直径部分に入り込んでいる。おそらく、これが物理学がスピノル(物質粒子のスピン)と呼んでいるものの正体だ。このとき、モノの表面は、当然のことながら無数の無限遠点(それぞれの観察位置)で覆われていることになる。この無数の無限遠点で覆われた球空間が「非局所的なモノ」としての3次元球面だ。ホワイトヘッドなんかがいう「永遠的対象」と呼んでいいかもしれない。
僕らが一つのモノを取り囲んで、モノの回転を見るとき、通常のモノの回転と一緒に、実はこの3次元球面の回転も同時に起こっている。3次元球面の回転とは、モノ側が経験している回転だ。モノは回転することによって、無数の人間の奥行きを吸収し、それらを一つの球体へと統合している。
具体的に言うとこういうことだ。一つの地球儀が目の前にあるとしよう。今、この地球儀をたくさんの人が取り囲んで見ているとする。僕には日本が真正面に見えている。次にこの地球儀を少しだけ回転させる。すると、真正面に見えていた日本は、たちまち、僕の視界から消え、誰かの真正面へと移動している。日本の位置は誰かの奥行きの中へと移動したのだ。こうして、モノの回転は回転することによって、様々な人の奥行きの中へと移動していく。この移動が3次元球面上の点を次々に移動していくことの意味だと考えるといい。
でも、こうした高次の回転認識は、主客が一致する空間においては認識が可能だが、人間は主体と客体を分離させて見ているから、決して気づくことができない。この空間での1回転は通常の3次元空間での2回転に相当している。回転が描く円の軌跡が、メビウスの帯のように捩じれていて、内部と外部を入れ替えるように、ひねっているのだ。この捻れは、自己と他者の間で相互反転関係にある相互の知覚空間を一つに統合する働きを担っている(下図参照のこと)。
つまり、人間の意識に3次元の客観的空間を作り出すシステムが、単なるモノの回転には潜んでいるということだ。それは遠い過去に、母親や身近な人たちとの間で経験した空間でもある。君はこのシステムを今度は自覚的に憶い出すことが必要だ。果たして見破れるだろうか?
内と外を捻ることが、逆に捻れを見えなくさせる——これがヌーソロジーでいう等化と中和の関係と考えるといい。人間の認識はもちろん中和側だ。等化側は無意識の中に沈んだままで眠っている。この等化側を明確に人間の空間認識の中に浮上させること。それがヌーソロジーがやろうとしていることだと思ってほしい。等化側の浮上によって、人間の意識は時間と空間の世界から卒業し、「創造の反転空間」の中に突入していくことができるようになる。
内部と外部の間、内の自発性と外の限定性との間に、全く新しい交通の様式が必要になるだろう。「絶対がそのなかでやすらう箱」——ドゥルーズ『襞』p.52
外部から内部へと入り、そして、また外部へと出て……。こうした無意識の反復ルートが見えてくると、外部だけに閉じられた3次元認識の世界がいかに意識を硬直化させ、矮小化させているかが分かってくる。
今のままでは、結局、理性は「神経症」によって死に絶え、感性は「分裂症」によって死に絶える。この悲劇をこれ以上続行させないためにも、僕たちは、この外部と内部の間を貫く無意識の呼吸のルートを、見えるものに変えなくてはいけない。自我が一つの血球にしか見えなくなるような血流を見出すこと。
12月 9 2014
ヌーソロジーの量子論解釈
11月のレクチャー資料done。量子論と意識の関係がかなりコンパクトに整理できた感じ。だけど、この内容、果たして4時間で話せるのかどうかチト不安。。
まずは簡単に量子力学の世界がどんな世界なのかをイメージさせる話に始まって、波動関数や、微分演算子の描像にトライする。こんなことは誰もやったことがない。だから、それが革命的な試みなのか、最大のトンデモなのかは、後世の人たちの判断に任せるしかない。
僕自身の現在の量子論に関する見解はおおむね、次のようなものだ。
主客未分離の状態から主体と客体がどのように出現してくるのか。量子論はその仕組みをすでに構造として把握している。でも、その構造に何の意味付けもなされていないために、単なる数学的形式の表現のみにとどまっている。それもこれも、物理学的思考が量子をあくまでも客体的対象として見なすクセから脱却できていないためだ。時間と空間をベースにして量子を記述すると、必ずこのクセの術中にはまってしまう。というのも、時間と空間が主客分離の本質的な要因となっているからだ。僕のなかの存在感覚では、時間が客観性を作り、空間が主観をまさぐっている。
こうしたクセを矯正していくためのポイントはただ一つだけのように思う。複素空間を構成する虚軸と実軸を単なる数学的観念の産物と捉えずに、そこに心理的に当必然的と思われる意味を直観することだ。それが、いつも言っている3次元空間の中で同一化してしまっている奥行きと幅の差異化に通じている。奥行きは虚軸、幅は実軸。もちろん、この虚軸には〈見るもの=持続持続〉、実軸には〈見られるもの=イメージ〉の意味が含意されている。世界には自己と他者がいるので、この奥行きと幅で構成される複素平面は2枚設定されることになり、知覚野は複素2次元空間へと変貌する。
こうした空間の形式を世界にセットした瞬間に、わたしたちの空間は一気にアルケーとしての無限小世界へとワープする。見ている世界はもう時空ではなく、世界の発生論的境位、つまり、現象学的始源となるということだ。世界は今から創造されていく——この反転の空間認識が物理学を真の自然学へと変容させることになると思っている。カバラにあるツィムツームを、具体的な思考の結実として反-現実化するためには、物理学がその根幹になければにっちもさっもいかないのだ。
わたしの精神は明確にある痕跡としての線を辿っているのであり、わたしの思考もまた、その線に沿って振動している。その線を思考自体が見出さないかぎり、思考はつねに無意識を茫洋としたイメージでしか追うことができない。エクステンドも大事。クラルテも大事。しかし、エクステンドはクラルテがあってこそ、ディオニソスの酩酊から、華麗なるヌースへの変身を遂げることができるのだと思っている。そこには生成を生成たらしめていく調和のハルモニアがある。
この「存在すること」から「生成すること」への不連続的連続とも呼べるような接続。ここに降り立つのが光子〈フォトン〉だと思っている。OCOT情報は「存在と生成の等化」という意味で、この光子のことを「真実の人間の精神」と呼んでいる。OCOTに拠れば、光子とは存在の精神を反転させ、それ自体に進化をもたらす力のことである。世界を存在と生成に二分割した黄金比そのものの力と言っていいだろう。photonの接頭語phは黄金比φ=phyからの派生でもあるのだ。
人間は無意識の発展の歴史に伴って、時間に対する感じ方を変えてきた。ドゥルーズの時間論を参照すれば、現代とは第三の時間が支配的な時代である。第三の時間とは、たががはずれた時間、発狂した時間とも呼ばれ、単に物差しのように直線化してしまった時間のことを意味している。こうした時間の中では、もはや、人間は時間として生きる存在ではなく、時間の中で生きる存在となり、時間は現実としての人間の生からかけ離れた生態を持つようになる。
ドゥルーズにとって、このことは朗報のようだ。この直線化した無限の時間は、永遠回帰の前触れでもあり、この時間の先には別の円環へと繋がる契機があることをドゥルーズは示唆している。時間はそのとき、その頑な直線性を無限遠点の到来とともに円環に丸めこみ、世界に根源的時間の出来を用意するのかもしれない。ヌーソロジーはそこに関わっているという自覚がある。
しかし、ドゥルーズがいう第三の時間の極限には単なる円環化や捻れだけではなく、分岐があるということ。それを明言しておきたい。数学的には直線的時間を象徴する「−1」という時間の計量が二本の「i」(虚軸)へと分離していくということ。それによって、外在世界はすべて始源から見た風景へと塗り替えられ、父に支配されていた物質は、母なる物質マリア・マテリアへの変容を見せていくのだと思う。
何はともあれ、この母なる物質世界への侵入が、ヌーソロジーの量子論解釈から始まる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ツィムツーム, ドゥルーズ, 複素2次元空間, 量子論