10月 21 2014
死は持続し、流転する
主客分離の空間と主客未分離の空間は僕らが生と死と呼んでいるものの関係に同じ。両者は相即不離の関係にあり、物理学的には時空と複素空間の関係として記述されている。
ヌーソロジーは、まず、この二つの空間がどのような秩序で構成されていっているのかを超感覚的知覚の中に思考体として浮上させる。新しい人類のための新しい場所論ともいえる。
この二つの空間の接点に身体が構成されている。その意味で人間の身体は物質でもあり精神でもある。精神としての身体を覚醒させることが、そのまま死の開示へと繋がっている。そして、この死の開示によって、物質的身体はその役割を終える。月から太陽へのルートがそこに開かれる。
そう考えると、奥行きとは死の在処ともいえるのだろう。わたしたちは主客未分離としての非自己を、まずは奥行きの中に感じ取らなくてはいけない。この奥行きに自らを支えている持続感覚が息づいているのであり、その感覚が同時に「自分は生きている」という生命感覚ともなっているのだ。
ここから生命観の根底的な反転が起こってくる。つまり、生命の本質力とはわたしたちが「死」と呼んでいるものの側にある、ということだ。
死は持続する。死は想像する。死は思考する。そしてその思考は流転する。流転して組織化する。何を?物質を。奥行きが開示されてくれば、その様子が手に取るように見えてくることだろう。
未だほとんどの人には意味不明かもしれませんが、2013レクチャーで使用したcave compass2012モデルを添えておきます。サブリミナルね(^^)
10月 24 2014
「いつでも今、どこでもここ」という新世界
「いつでも今、どこでもここ」という感覚は、誰でもが直感的に感じることができると思うのですが、その感覚が立ち上がっている場所のカタチを、認識に明瞭に浮上させることがヌーソロジーの思考を行ってための入口になります。
「いつでも今」ということは、あらゆる瞬間が対称性を持っている(置き換えが可能)ということであり、「どこでもここ」ということは、あらゆる位置もまた対称性(置き換えが可能)を持っているということを意味しています。こうした対称性が生まれている場所がわたしたちのこころを作っていると考えましょう。
今までの人間の知性は、空間と時間の方にばかり向いていて、ここはここ、あそこはあそこ、今は今、昔は昔といったように、分離を前提とした非対称的な思考のもとに働いてきました。これからの時代はこうした思考のスタイルは徐々に勢力を弱めて、こころの思考が芽吹いてきます。
「いつでも今、どこでもここ」を前提とする思考とは一体どういうものでしょう。一昔前ならば、そこからはもう思考ではなく、感じることだ、で済まされたわけですが、宇宙はこのカベを破ることを強く要請してきているように感じます。「こころで感じること」を超えて、こころで思考すること。そして、その思考を感じること。
目の前に現在が見えるとすれば、そこには永遠が重なっています。目の前に一つのモノが見えるとすれば、それはすべてのモノと重なっています。それがこころで知覚するということの意味であり、この知覚のもとにこころの思考が開始されるのです。
この「いつでも今、どこでもここ」の世界は、過去や現在や未来や、ここやそこやあそこの成り立ちを、その奥で支えている宇宙の深みと言っていいような場所です。この場所がなければそもそも世界自体が存在することができません。だから、それは世界のいのちとも言えます。
この「世界のいのち」に身を浸して、今までの知のかたちを再構成する作業を始めなくてはなりません。そうすれば、きっと新世界が開いてくるはずです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0