12月 11 2018
光速度とは永遠世界への入り口
光とは人間に発見されるのを心待ちにしている精神のことだ。
光においては時間や空間の隔たりは意味をなくす。
光の中に入れば、いつでも今であり、どこでもここ。
光速度とは精神の物理学的表現だと考えよう。
光速度を奥行きの名のもとに収縮させ、
そこに身を入れること。
物自体がそこから始まる。
量子の非局所性については、すでに厳密な検証が2015年に行われている。世界は非局所性をもとに成立している。しかし、今もなお、世界に対する人間の認識は局所性を基盤にしている。そして、それに即して宇宙の歴史や人間の歴史を考えている。
ここには大きな矛盾がある。つまり、時空をベースにした世界イメージは副次的なものであり、ほんとうは非局所性を基盤にした宇宙像を作り出さなくてはいけないのだ。それが出て来れば、現在の科学的世界観がいかに歪んだものかが分かってくるだろう。
非局所性とはわたしたちの精神のことだ。素粒子にはわたしたち人間の精神が反映されている。その意味で宇宙は一つの巨大な精神体と見なすべきだ。星々も、星雲も、銀河も、決して、わたしたちと疎遠な存在ではない。それこそ非局所的相関の中でダイレクトに繋がっている。
今、待ち望まれているのは、そうした繋がりを生き生きとイメージさせることのできる高次の存在論だろう。宇宙の進化は時間の中で行われるものではなく、時間自身が進化していくことにある。物質もその進化が生み出したものであり、時間の中で生まれたものではない。
光速度とは精神の物理学的表現と言ったけど、すべての素粒子が非局所的存在なら、すべての素粒子は光速度状態にある精神の様態であり、素粒子が時空の中を運動するなんて描像はニュートン物理の幻影を引きずっている思考の産物ってことになる。つまり、全く正しくないということ。
物理学者も当然、そのことは承知しているけど、物理学に精神なんてものを関わらせたくないから、内部空間とか余剰次元とか呼んで、数学的に記述することで、それが何であるかの判断を保留しているわけだね。この頑なな防御が近代自我による、やがて到来するものに対する抵抗と言っていいと思うよ。
量子が持つ粒子性と波動性というアンビバレントな二重性は、精神の持続性(非局所性)が時空という延長世界に展開されて表現されるときの二通りの在り方にすぎないんだよ。粒子性は瞬間での精神の切り取り。波動性は時空全体への精神の射影展開。時空を無視すれば、量子とは永遠的幾何学体(カタチ)。
自我はどうしても現在を特権化して、「今に生きる」ということに執着しがちだけど、現在(時空)には常に「持続」という永遠が寄り添っていることを意識しないといけない。生きているのはそれだから。そして、できればこの永遠を特権化して、そこに新しい主体と精神の宇宙をイメージしないといけない。
奥行き=虚軸(持続軸)という空間認識の大幅な変更は、知覚の現場を時空が作り出す瞬間性と量子が作りだす持続空間との接触の現場へと塗り替える。つまり、知覚を物の中にもたらすのだ。「物が知覚されるのは物の内部においてである」というベルクソンの言葉通り、それによって、主客概念は姿を消す。
12月 14 2018
【重要!!】「円心」という概念について―伝説のキットカット実験
持続空間と量子の関係を思考していく上で、最も重要なのはやっぱり円心という概念だね。ヌーソロジーに関心がある人は、是非、この円心という概念をマスターしてほしい。持続空間の感覚的強度を上げるための、ホント強力な概念だ。とりあえず、円心関係を対象と観察者の関係に当てはめ、図にしてみた(下図参照)
こうして外から見たイメージで、図示するのは全く不正確なんだけれど、う~ん、致し方ない。くれぐれも、君自身が図の観察者の位置に身を投げ入れた感覚で、この図を見て欲しい。頼んまっせ。
円Aの中心点は、普通に、自己中心化した主体の位置と考えていい。
問題は円Bの方。
この円Bは、決して自分の目の前の対象を取り巻いている円を意味しない。
「円心」の定義は、円の中心と円周が相互に反転したもの―のことを言うのだから、円Bは観測者の位置が反転したものだ。
とても大事なところだから、何度も紹介するけど、この円Bは例のO氏夫妻によるキットカット実験(なんかフィラデルフィア実験みたいでカッコいい:笑)の映像が作り出している空間のことだね(下動画)。
で、ヌーソロジーは、奥行きを持続空間と仮定しているわけだから、目の前には、常にこの円Bの空間が存在しているわけ。
でも、君はそれが当たり前すぎて分からなくなってる。普段、空気の存在を忘れているのと同じ。つまり、持続空間なんだから、その空間は君の記憶の容器として働いているってこと。
ベルクソンは記憶の場所を抽象的な円錐モデルで表現したんだけど、それだと単にモデルにすぎず、イデアには結びつけられない。単なる抽象で終わっちゃう。だから、円錐モデルには発展性がなかった。事実、円錐モデルを紹介した『物質と記憶』の後、いきなり生命論の『創造的進化』へとワープしちゃう。
ヌーソロジーの場合は、この記憶の容器となった円Bの方をダイレクトに素粒子と接続させちゃう。それによって、ここから始まる持続空間の構造を素粒子の構造と対比させて、より具体的に持続空間の風景を探っていこうとしているわけだね。ここでは、すでに物質と精神が一致した思考になってることが分かる。こういうのを哲学では「即自」っていう。イデアの思考は即自であることが条件なんだ。
ちなみに、ヌース用語では円Aの空間認識のことを「位置の中和」、円Bのそれを「位置の等化」と呼ぶ。
位置の等化とは、主体と客体の位置が等化されているという意味。位置の中和とは、位置の等化を見えなくさせるという意味。もちろん、今の僕らは後者が先手を取り、前者は無意識に沈んでる。
円Aと円Bの円心関係、少しはイメージできてきただろうか。。
こうして、無意識の主体(持続)は、自分自身を鏡に映すようにして肉体へと反映させているわけだ。そして、そのとき鏡の役割を果たすのが「他者存在」というストーリーになってる。他者とは、僕らに「位置の中和」を与えているものなんだ。
とにかく、ゆっくり考えてみてね。まったく別の世界が徐々に見えてくるようになるから。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ベルクソン, 素粒子