1月 19 2007
差異と反復………6
とても回りくどい言い方になってしまったが、前回言いたかったことはただ一つ。モノの外部と内部の差異の幾何学的描像はS^2ではあり得ないということである。そのことは実際に知覚されているモノと空間の関係を素直に見つめれば少しづつ分かってくる。過去三冊のヌース本にも繰り返し書いてきたことだが、知覚されている世界は3次元空間ではなく射影面であるということを忘れてはならない。射影面(2次元射影空間)とは下図に示したように、球面S^2上のすべての対蹠点(たいせきてん)が同一視されるような空間のことである。点Pnは光学中心となる点Oを境に反転して点Pn*と同一視される。これらの射影線の集合をひとまとめに見れば、2次元射影空間の構造には相互に反転した二つの3次元空間が存在しているということが分かる。
このことは、目の前にモノがあるとき、そのモノの見え姿としての表面(これを物体正面と呼ぶことにしよう)と、モノを図として支えている背景としての面(これを背景正面と呼ぶことにしよう)は、実は同一の面の反転した現れだということを意味している。この反転の様子を実際の感覚に上げてくるのは簡単だ。目の前の球体がどんどん縮んで行く様子を想像するといい。そして、その球体がついには0点まで縮んで、そこでオモテとウラが反転し、今度はどんどん膨張していくさまを思い描けばいいのだ。すると、背景正面に当たる面が、もともと物体正面と呼んでいた面と同じ側の面となっていることがすぐに見て取れるだろう。つまり、知覚空間上におけるモノの内部と外部の差異とは、射影空間の構造を通して見れば、相互に反転関係にある3次元空間同士の差異となっているということなのだ。この3次元空間の相互反転関係の認識はヌースの世界へと入っていくためには極めて重要なものである(「人神」ではタキオン空間として説明したものだ)。
前回書いた、モノの内部がただ単に膨張していく空間のイメージを思い出してみるといい。その描像では、モノの背景正面はそのままモノの内壁と同じ面にしか対応してこないことが分かるだろう。つまり、モノの内部がモノの外部を呑み込んでしまっている同一化の状態とは3次元認識そのもののことを言っているわけだ。しかし、知覚野の空間を射影空間として見ると(というより、事実、射影空間としてしか見れないのだが)、背景正面はモノの外壁と同じ面であり、モノの外部としての空間は反転しているのである。そして、この反転した空間の内壁において僕らは図としてのモノを受け取けとり、知覚世界自体のランディングを可能にさせていると言っていい。しつこいようだが大事なところなので、もう一度、別の言い方で、モノと空間の間にある幾何学的イメージを明記しておこう。
モノを象っている外壁面とモノを取り囲んでいる空間の内壁面は同一の面が反転したものである。
今、おそらくみんなの頭の中でじわじわと浮上してきているであろう場所のことをヌースでは「人間の外面」といい、そこで働いている意識のことを人間の外面の意識という。一方、背景正面をそのままモノの内壁が膨張したものと見なし、両者を同じ面として見ている認識を人間の内面の意識という。こちらはおなじみの3次元の空間認識である。たぶん、みんなは今までこのような仕方で空間を二つに区別したことはあまりないはずだ。というのも、通常、僕らは人間の外面領域に全く気づいていないからである。その意味でヌースがいう人間の外面の意識とは無意識の場と呼ぶことができる。しかし、それが意識化されたからには、それはもう無意識の場ではないとも言える。これからは、そこは、ほんとうの君がいるほんとうの場所として感じ取られてくることになるだろう——。
さて、これでようやく、モノの内部と外部の差異を云々する準備が揃った。まだつづくよ。
1月 20 2007
差異と反復………7
単に3次元の広がりとしてしか認識されていないこの空間には反転したもう一つの3次元空間が重畳している。一つは客体の場(人間の内面)となり、そして、もう一つは主体の場(人間の外面)となっている。これがヌース理論がこの十数年の間言い続けてきていることだ(前者が次元観察子ψ4、後者がψ3に対応する)。
この二つの空間を可視的なイメージに置き換えることは可能だ。それには下図に示したよう正六面体のフレームワークを紙の上に描いてみるといい。この正六面体を3次元立体として見ると二種類のものがイメージできるはずだ。そして、それらは相互に反転していることが分かるだろう(ネッカーの立方体)。対象認識にはこうした2つの空間の存在が暗躍しているのだ。
このような描像を用いて対象界面をイメージしてみると、そこには対象の内壁と外壁が同居している様子が朧げながらも浮かんでくるのではないかと思う。つまり、反転した空間を考慮に入れると、モノと空間の境界面はその内部と外部それぞれの同一性を無効にするような形で存在させられているということになる。つまり、内部=外部、外部=内部という関係を成立させているということだ。内部と外部の向き付けが不能な面。。こうしたイメージはあのおなじみのメビウスの帯が提供してくれるのを僕らは知っている。実際に、前回紹介した2次元射影空間RP^2の切り口は縁のないメビウスの帯になることが幾何学的には分かっている。
つまるところ、僕らの対象認識においてモノの内部と外部を差異化させているのは、このメビウスの帯的な空間の捻れなのだ。これは別の言い方をすれば内部方向と外部方向を等化している力、つまりヌースでいう「最小精神」のカタチである。その等化に反映されているのが中和としての3次元空間だ。内部と外部の間に捻れがあるにもかかわらず、それが見えないと、その捻れ自体が境界のように見えてしまう。それがおそらくモノの界面の現出に潜むからくりである。トポロジカルな言い方をすれば、モノと空間の境界面とは4次元空間における2次元の結び目と言えるのかもしれない。僕らが慣れ親しんでいるのはひものような1次元図形の結び目だが、この結び目を作るには最低3次元の空間が必要になる。ひもの結び方を知っている者にとっては、結び目ができていようとそれは単なる一本のひもにすぎない。しかし、結び目が何か知らない者にとっては、それは奇妙なこぶのように見えてしまう。それと同じで、モノ概念は2次元の結び方を知らない3次元意識だけに存在するものなのだろう。
メビウスの帯の場合、捻りとは帯の幅方向の180度回転に当たるが、3次元空間の場合、捻られたのは無限小と無限大方向相互の180度回転である。このとき、人間が3次元認識の中で「点」と呼んでいたものは、無限大の球面(平面)のようなものに置き換わる。つまり、無限小と無限大の対称性が形作られたということだ。そこが背景正面としてのψ3の位置である。当然、その捻れが見えていないものが反映としてのψ4の位置となる。ψ4はψ3が持った捻れをψ1とψ2の境界のようなものに感じ、等化という回転(捻り)の働きが裏で暗躍しているがゆえに、ψ1(無限大方向)とψ2(無限小方向)の間を反復してしまうのだ。
こうして、等化=差異、中和=反復というヌース理論の文脈からの「差異と反復」の最も基本的な鋳型が幾何学的に構成されたことになる。ということで、次で終わろうかな。。長くなってしまった。。
By kohsen • 差異と反復 • 4 • Tags: メビウス, 内面と外面, 差異と反復