3月 19 2005
ヌース式夢見の技法
昨夜はうかつにも寝てしまった。ここのところ睡眠不足が続いていたので、ころっと持っていかれてしまった。おかげで、久々の人間的熟睡を満喫。人間的熟睡という言葉はちょっと変に聞こえるかもしれないが、こうした表現をしたことには実は理由がある。
まだ、あまり人に話したことはないのだが、わたしには、ここ1〜2年、自分の睡眠の質が明確に二分して来ていることの自覚がある。つまり、眠りの空間が二つのタイプに分かれてきているのだ。もちろん、これは主観的な話なので、気のせいと言われればそれまでだが。しかし、わたし自身は、この分離がヌース的な思考の作用によるものではないかと直感している。さて、その分離がどういうものかというと、普通の睡眠は気がつくと眠っている、というか、眠ると気を失っている。そういうものだ。つまり、眠ると通常の自意識は消えてしまって、時間感覚もなくなる。夢を見ているときは、それなりの時間感覚や自我感覚があるように思えるが、それは極めて希薄なもので、起きているときのそれにはほど遠い。
さて、平均すると1ケ月に1回ぐらいだろうか。2年ほど前から、それまで体験したことのないような全く異質な眠りの空間が巡ってくるようになった。簡単にいうと、眠っているのだけれども自意識が消えないのだ。だから眠りの中で起こっていることがはっきりと手に取るように分かる。これは古代のシャーマンたちが夢見の技法を用いて入っていったような空間のようなものなのかもしれない。しかし、そこに夢は展開しない。全く別の風景がある。
実は、この手の睡眠空間に入っていくときは前もって分かる。頭皮や顔の皮膚あたりに弱冠突っ張った感覚が生まれ、そのうち、それらを構成している細胞の一つ一つがプチプチと変な音を立て始めるのだ。この皮膚感覚は、「人神」に書いた例のOCOTから最初にコンタクトがあったときの感覚に近い。来た——。ちょうど深海に潜航していく感じと思ってもらえばよい。最初の頃はわき上がってくる恐怖から、その空間の中に沈んで行くのを拒んでいる自分がいた。拒否するとどうなるかというと、目が覚める。そして、また眠ろうとすると、その空間が出現してくるので、再度、拒否する。目が覚める………そういったことを4〜5回繰り返しているうちに、通常の眠りの空間側に入り、そのまま眠ってしまっていた。しかし、1年ぐらい前から、その空間の中に入ってみようと思い始めた。そのうち、怖さも払拭することができるようになり、逃げるのではなく、はっきりとした意思を持ってその空間に潜航していくことができるようになったのだ。
来た——。これは夢じゃないな、と、毎回その空間が訪れるたびに自分にいいかせ、一応、確認のために閉じていた目を開ける。そこには、しっかりと掛け布団と内掛けの毛布の淵が見えている。そして、またすぐに目を閉じる。その奇妙な眠りの空間はしっかりと開いたままだ。さぁ、潜るぞ。出発だ。顔面全体に眠りの空間の圧力を受けながら、自分が何らかの空間の中を潜航していくのがはっきりと分かる。わたしは素潜りはできないが、その感覚は本当に素潜りで海の中に入って行く感覚と似ているのではなかろうか。頭部を囲む空間の圧力がどんどとん高まり始め、真っ暗だった空間に何やら、無数の粒、小さな小さな気泡のようなものが見えてくる。顔面がプチプチしているので、炭酸水の中を泳いでいるような感じだ。そうこうしているうちに、その泡が消え去り、海の内部風景が眼前に開いてくる。何だこりゃ、こりゃすげえ〜。という感じである。………長くなるので、この話、またいつか。
3月 28 2005
贈ること、と受け取ること
一人デュオニソスの祝祭日も終わり、平穏な日々が戻ってきた。いつもの通り、会社に出社。売り上げ状況を確認したあと、たまっていたメールと手紙の返事を書く。わたしは手紙の返事が苦手だ。特に知らない人から来た手紙には何をどう書いてよいやら分からない。生来の性格が無精なせいもあるが、基本的に面識がない人にはここ数年はほとんど返事を書かなくなった。しかし、とはいいながらも、この人には返事を出さなくては悪いのでは?と思われる人には、仕方なくペンを執る。今日は、先日、本の原稿をいただいたS氏がその宛先である。
処女作の「人神」を出版した当時は、読者から毎日のようにFAXやら手紙が来ていた。本の内容が内容なだけに、中にはイカれているのもある。丁寧かつ、真摯な内容のものだけ選んで返事を書くようにした。しかし、返事を書くと、また、返事が返ってくる。苦しい。。別にわたしはあなたと文通がしたいわけではない。。。。時間がたっぷりとあるならば、一通一通、丁寧な返事を書き綴りたいところだが、手紙をしたためるというのは、思いのほか時間がかかるのだ。残念ながら、わたしの度量ではそこまで時間を割くことはできない。
手紙はまだいい。問題は贈り物、プレゼントの類いだ。
「先月、セドナに行ってきました。そこの石です。」
「中国で竜が宿ると言われた洞窟から採れた水晶です。」
「○×神社の御神石です。そばに破片があったので、だまって持って帰って来ちゃいました。」
職業柄、わたしのもとには、こういった類いのプレゼントがよく届く。一度、直径が20cm以上もある紫水晶の原石か何かを読者からいただいたことがあった。重さにして10kgぐらいはゆうにある。気持ちは本当に有り難いのだが、「オレは石屋じゃねぇー」。
見知らぬ人からの贈与は、それが高価なものであればあるほど一種の暴力と化す。プレゼンターは何か見返りを期待しているわけでもないだろうが、受け取った方に取っては、それは一種の負債のように感じさせられてしまうのだ。何かお礼をしなければならないのではないか。もっと感謝しなければならないのではないか。こんなところに放って置いてよいものだろうか。そうやって、わたしの中に絶えず強迫観念が襲ってくる。
世界とて同じだ。
神という見知らぬ者から、わたしへの、世界という多大なる贈与。
これだけの世界をおまえに与えてやったのだから、おまえはわたしに感謝すべきではないか?
おまえが生きていられるのは、わたしがいるからだろ。だから、わたしの名を呼べ。
おまえに感謝がないから、こんな罰が下ったのだぞ。
——神の奴隷的精神。ユダヤ的一神教の精神の誕生である。
わたしは自然や、わたしの生を支えてくれる周囲の良識ある人々には心から感謝しているし、彼らのためであれば、いかなる労苦も厭わない。しかし、人を脅すような神には絶対に仕えない。人に命令を下すような神は絶対に信じない。古き父にこの世界からいなくなってもらうこと。それがヌースの見果てぬ夢である。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ユダヤ, 人類が神を見る日