6月 25 2006
夜が起きている。。
最近、ワールドカップのTV中継を観ているせいか、どうも生活のリズムが無茶苦茶になっている。今日も午前3時に目が覚めてしまった。こんな時間に起きるのは久しぶりだ。本を書き進めているせいもあるのだろう、真夜中の目覚めというのはどうも僕を必要以上に哲学的にさせてしまうようだ。
寝静まり返った街。真夜中の静寂の中で、夜の深みが、存在することの厳粛さを無言の中に表現してくる。不思議なものだ。世界は沈黙することによって世界の赤裸々さを見せてくる。あらゆる意味がはぎ取られ、ただ世界があるという生々しい現実だけが、あたかも濃霧のようになって僕を包みこむ。言葉がかき消され、理性がマヒし、わたしという存在がかすんでいくのがわかる。夜が起きている……のだ。レヴィナスのいう「ある/イリヤ(il y a)」である。
不眠の目覚めの中で目醒めているのは夜自身である。レヴィナスはたしかそう言っていた。そこで無に宙吊りにされる〈わたし〉の思考。しかし、熟睡した後の真夜中の目覚めは不眠の目覚めのそれとは全く違う種類のもののようにも感じる。無の宙吊りという意味においてはなるほど一致している。そこでは言葉は縮退し、むき出しの「ある」のみが圧倒的な存在感で迫ってくることも確かだ。しかし、ここにはハイデガーの「不安」も、サルトルの「吐き気」も、そしてレヴィナスの「疲れ」や「倦怠」も見当たらない。不運なのか幸運なのかはわからないが、戦争という圧倒的な不条理を経験したことのない僕にとって、存在が作り出すこのホワイトアウトは、畏怖するものというよりも、信頼すべきもののようにも見えるのだ。というか、存在を信頼しないで存在の中に生きることなんてできない。もちろん、そうした楽観は、ヌース的思索のせいでもあるのだけど。。
存在とは神の寝姿である。存在は待機しているのだ。だから、僕にとっては、「ある/イリヤ(il y a)」は、ちょうど開場前の劇場のように見える。赤いビロードの絨毯。円弧状に並べられた椅子。非常出口のランプ。出し物は何かわからないが、やがてやってくる観客たちの声でこの劇場は埋め尽くされることだろう。他者の顔がレヴィナスの「顔」に変わるのはそのときだ。そうした顔は、私に呼びかけ、語りかけ、真の自由を呼び覚ましてくれるに違いない。他者とは神の別称なのだから。
1月 11 2007
差異と反復………2
たぶん「差異」という言葉を難解に感じている人も多いかもしれない。単なる言葉の意味としてならば、それは「違い」と言い換えても何の問題もない。ただドゥルーズが執拗に追いかけていた「差異」とは、存在論的差異というやつである。もともとこの存在論的差異を云々しだしたのはハイデガーだった。存在論的差異とは、簡単に言えば、「あること=存在」と「あるもの=存在者」の違い、のことだ。「あるもの」は「あること」によってその存在を可能にさせている。「あること」がなければ「あるもの」もあるものであることを止めざる得ない。問題はこれら「あること」と「あるもの」、この両者の差異とは何か、ということである。しかし、ちょっと考えると、さらなる差異もある。「あること」と「あるもの」の差異を見ているのは人間じゃないかということだ。つまり、存在論的差異に対してさらに差異を持っているのが人間の存在の有り様であって、ハイデガーはこうした存在を存在者とは区別し現存在と呼んだ。存在、存在者、現存在。。存在にもいろいろある。ドゥルーズは存在に潜むこれら諸々の差異の本性の中に思考を侵入させていこうとしたのだ。。。。話が難しい。
すでに思考停止した人もいるかもしれない。しかし、ちょっとした言葉の置き換えで、この哲学的命題は非常に分かりやすくなる。それは存在を「神」に、存在者を「被造物」に置き換えさえすればいい(まぁ、こういう乱暴な置き換えが許されればのことだが)。すると、存在論的差異とは、神と被造物との差異のことを言っているということになる。ただ神という概念は全体性への欲望を駆り立てるので、現代哲学は好まない。事実、ハイデガーの時代はすでにニーチェが登場して「神の死」の時代に突入していた。おまけに第一次世界大戦という歴史上未憎悪の惨劇が起こり、ヨーロッパ世界の存在そのものが危機に瀕していた。ハイデガーはカトリック教会の堂守の子で、幼少の頃は敬虔なクリスチャンだったのだが、彼はその神学的な欲望を哲学で果たすことによって、ヨーロッパ世界(ドイツ民族?)の救済をもくろんだのだろう。
さて、この差異だが、差異には必ず反復がセットがついてくる。というのも差異とは常に何ものかと何ものかの差異でしかあり得ないからだ。例えば、右と左の差異について考えるといい。こう言った瞬間にも、皆の首は右、左、右、左、とテニスの観客のように反復しているのではないだろうか。つまり、差異が反復を生むと言えるし、また反復の間に差異が眠っているとも言えるのだ。そして、反復という活動は人間の言語が二項対立的な図式のもとに成立している限り、必ずすべての認識につきまとってくるものとなっている。というところで存在論的差異の話に戻ろう。
ドゥルーズは世界が現れていること、これもまた反復であるという。一体、何が反復しているというのだろうか。それは端的に言えば、存在論的差異における反復である。存在論的反復とは、言葉の上で言えば、存在、存在者、存在、存在者………という反復のことになるが、これでは何のことか分からないので、再びさっきの言い方を用いてみる。すると存在論的反復とは、神と創造物の間の反復と言い換えることができる。つまり、単に存在する、とは言うものの、目の前に世界が現れているということは、創造における最初のものと最後のものとが一緒に重合しあった形で、その気の遠くなるような創造の距離を、おいっちに、おいっちに、と反復しているということである。こうした反復は僕ら人間には即自的反復(それそのものにおける反復)のようにしか見えないが、その背後にはニーチェのいう永遠回帰が働いているということなのである。——つづく
By kohsen • 差異と反復 • 5 • Tags: ドゥルーズ, ニーチェ, ハイデガー, 差異と反復