12月 12 2014
ヌースレクチャー#3のためのドゥルーズ哲学の予備知識——その1
1.ドゥルーズのいう「差異」って何?
次回のヌースレクチャーではドゥルーズ哲学とヌーソロジーの擦り合わせを行っていこうと思っています。レクチャーのための準備作業ということで、今日から約2ケ月間の間、ドゥルーズ哲学とヌーソロジーの共通点について、いろいろとつぶやいていこうと思います。
ドゥルーズ哲学は別名、「差異の哲学」とも呼ばれているのですが、最初に「?」となるのは、この「差異」という言葉の意味です。おそらく、ネットで調べても、この「差異」に関しては、いろいろな人がいろいろなことを言ってるので、混乱を起こすと思います。
この差異は普通、僕らが「これとこれは色が違うね」とか「君と僕は考え方が違うね」とか言うときの、「違い」のことなんかでは決してないので、まずはそこをしっかり押さえておいてください。80年代のイケイケ資本主義の時期に「差異の戯れ」とかいう言葉が流行ったので、それとゴッチャになってる。このへんは紹介のされ方にも問題があったかも。。
ドゥルーズのいう「差異」とは、一言でいうと「存在と生成の差異」なんだね。「あること」と「なること」の差異。抽象的で分かりにくいけど、誤解を恐れずにキリスト教的言い回しで言えば、「創造されたものの世界」と「創造するものの世界」の差異のこと。つまり被造物の世界と創造者の世界との差異なのね。
で、ドゥルーズはこの存在と生成の差異を見極めるためのとっかかりを、まずはベルクソンの持続概念の中に見たの。創造された世界では時間が存在として君臨しているのだけど、創造する世界では純粋持続が別の根源的時間の中で生成の運動を行っていて、その持続の多様な活動の中から存在が出現してきたのだと。要は、存在より生成を重要視するわけ。
存在が支配する世界では、事物はすべて存在するものであって、なるもの、つまり、生成にはなり得ない。今の人間の意識の世界は、こうした存在が持った一義性に支配されていて、すべてが、「何々がある」とか、「何々である」とか、この「ある」という、英語で言えばBe動詞によって支配されているわけだね。
世界のこうした現前の仕方の中で活動する人間の意識状態のことを、ドゥルーズは「現働的なもの」と呼び、一方、こうした存在としての活動を生み出した生成の世界はこの「現働的なもの」の裏側で「潜在的なもの」として働いている、とします。ドゥルーズのいう差異とは、この両者の間にある差異のことです。いや、より正確に言えば、〈現働的なもの-潜在的もの〉というように、現働的なものが表に出て潜在的なものが裏に回った世界と、〈潜在的なもの-現働的なもの〉というように、潜在的なものの方が表に出て現働的なものが裏に回った世界との差異です。
ドゥルーズ哲学にはこうした「差異」に対して「同一性」という言葉が頻繁に顔を出します。この同一性とは、さっきいった「存在」とほぽ同じ意味と考えていいです。人間の世界が成立している根拠を与えているもののことであり、ドゥルーズはここに神、自我、表象の連携を見ます。
ですから、ドゥルーズにとって「差異化する」とは、神、自我、表象を逃れ、人間の思考に巣食うあらゆる同一性から逃れている「潜在的なもの」の次元へと、つまり「なること」の次元に向かって、人間を人間ならざるものへと解放していくことを意味しています。——今日はこのへんで。
12月 17 2014
ヌースレクチャー#3のためのドゥルーズ哲学の予備知識——その2
2.ドゥルーズとドゥルーズ=ガタリってどう違うの?
たぶん、最初にドゥルーズに触れる人が混乱するのは、ドゥルーズとドゥルーズ=ガタリという二つのタイプのドゥルーズじゃないかなぁ。
ドゥルーズのフルネームはジル・ドゥルーズ。一方、ドゥルーズ=ガタリというのはジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリのデュオ名。ドゥルーズ=ガタリというのは言ってみれば、レノン=マッカトニーのようなものと考えるといいかな。1960年代まで、ドゥルーズは哲学史家として活動し、その集大成として『差異と反復』を著して、ドゥルーズ哲学の母胎を作り上げたのだけど、70年代に入ってからは、このガタリという人物と共同執筆を開始するのね。その一発目が『アンチオイディプス』という著作で、これが思想界にセンセーションを巻き起こしたんだね。それで一躍、ドゥルーズ=ガタリの方が有名になっちゃった、という経緯がある。
ドゥルーズ=ガタリの思想には、当然、ガタリのサウンドが入ってきてるから、ソリストとしてのドゥルーズとは大きな違いがあると僕なんかは感じてます。ガタリという人は哲学者ではなく、本職は精神分析医で、それもかなり過激な社会活動家だったのね。もともとはラカンの弟子だったんたけど、ラカンのブルジョア的な精神分析を嫌って論敵と見なすようになっちゃう。ラカンとの対立軸は明確で、ラカンが「無意識は一つの言語活動として構造化 されている」と考えたのに対して、ガタリは「無意識は言語のように構造化されてなどいない」 と考えてた。ここがラカンを忌々しく思っていたドゥルーズとピッタリ波長が合ったところだったんじゃないかな。ガタリにとっては、精神病は社会や経済システムが引き起こす病であり、精神病の治療もまた社会全体を変えていくところからしか始まらない。だから、当然、政治的なものへとコミットメントしていく。
でも、こうしたガタリにドゥルーズがなぜあれほど入れ込んだのかは、ちょっと謎。『差異と反復』までのドゥルーズにはおよそ政治的な臭いはなかったから。当時の時代状況を考えると、フランスでは学生の大規模なストライキに労働者たちも参加して五月革命というのが起こった。こうした政治的動乱を目の当たりにして、自分の哲学の方向性を少し考え直すところがあったのかもしれない。ドゥルーズがガタリと出会ったのはこの五月革命のすぐ後だったんだよね。それでガタリのビチビチした思考線に触発され、そこに自分自身の思想をミックスして、政治的なものの中へと入っていく大いなる実験を試みたのかもしれない。
それで、何でもいいから、今考えていることを書いて、自分のところに送れってドゥルーズはガタリに言うんだね。そして、送られてきたガタリの走り書きのような論稿をそれまで培ってきた自分の重厚な哲学的知識で、一気にフォローUPして、一冊の書物に仕上げていく。ガタリの一匹狼的で半ば狂人とも思えるようなワイルドな強度たっぷりの思考線に、ドゥルーズの成熟した哲学的思考がピッタリと寄り添って並走していくわけだ。こりゃすげぇーに決まってる。それで『アンチオイディプス』という本が世に送り出されることになる。そして、当時の思想界に一大センセーションを巻き起こす。
だから、当然、ドゥルーズ=ガタリの著作の方は、それまでのドゥルーズ単独の著作に比べて政治的色彩が強いものになっている。実際、読んでみると分かるけど、ガタリの言葉のセンスというのが、センス抜群というか、かなりスタイリッシュでね。「原始土地機械」だとか、「脱コード化」だとか、「スキゾ分析」とか、「リゾーム」だとか、「アレンジメント」とか、とにかく、シャープでキレキレなわけ。実際、文体も既存の堅苦しい哲学のスタイルをブチ壊して、極めてアバンギャルドでPOPなものだった。まさに、思想界のサージェントペパーズといった感じ。これは若い連中はヤラれちゃうでしょ。当然のごとく、このスキゾスタイルが単に哲学分野に限らず、アーティストたちなんかにも熱狂的に受け入れられていくんだね。それが浅田彰氏の紹介によって80年代に日本にもはいってくる。
で、問題のドゥルーズとドゥルーズ=ガタリの違いだけど、個人的には”別物”と考えた方がいいと思ってる。ドゥルーズは晩年は、ガタリとの協働作業を終えて、再び、静謐な観念の哲学者へと戻っちゃう。あくまでも、非人間的なもの(同一性に依拠しない脱-表象化の思考体)を目指す哲学に戻るってことだけど。ドゥルーズ=ガタリに見られるドゥルーズは政治化したドゥルーズであり、社会にコミットメントしたドゥルーズと言っていいんじゃないかな。どちらも、もちろん大事なんだけど、個人的には非人間的なものを思考によって追求していくドゥルーズの方がドゥルーズの本来、という感じがするし、哲学本来の哲学という意味でも、一層、魅力的です。ヌーソロジーと噛み合うのも、もちろん、この非人間的なものを目指すドゥルーズの方です。
(走り書きも同然なので、細かい突っ込みはナシね)
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: アンチ・オイディプス, ガタリ, ドゥルーズ, ラカン