11月 4 2014
分離意識は〈繰り広げ〉、未分離意識は〈巻き込み〉
主客未分離の意識を意識と呼べるかどうかは別として、時空を主客分離の意識の場とするなら、未分離意識の場が数学的形式として表現されたものが複素空間です。
ベルクソンがいうように、僕たちは、ほんとうは、物がある場所において物を知覚しています。知覚は僕らを一気に物の中に置いているということです。今まで、このような構図が数学的形式として表現されることはありませんでした。この様子を複素空間として考えることで、意識と物質のつながりを構造として思考していくことが可能になってきます。
ここではベルクソンがいう主観性の線(奥行き)は虚軸として表されます。この虚軸には、感覚性や記憶内容としての記憶、さらには収縮としての記憶がならんでいると考えられます。これらはボゾンやフェルミオンといった素粒子の分類の中で表されていくことになると予想しています。
複素空間は時空から見れば回転しているように見えます。この回転が時間と空間の関数として表されたものが波動関数ψ(x,t)です。これは時空と複素空間の接点の役割を果たしている表相(=視覚表象の位置)を発出点として、意識が持つ可能的次元を形成するための運動だと考えられます。
わたしたちの経験は、この表象を境界として、時空と複素空間に分化した意識の二つの方向性の混合において成り立っていると言えます。この混合をベルクソンが言うように注意深く分けなくてはいけません。
そのためには世界を時空と複素空間という二つの空間形式のレイヤーとして見る知性が必要になってきます。この空間のメタ知覚が生まれてくれば、もはや、物質と精神は別々のものとは見えなくなってくるでしょう。
日本人は、遥か古代にこうした空間知覚を持っていたのではないかと僕なんかは想像しています。たとえば、「先代旧事本紀」が伝える十種神宝には、このレイヤー空間の仕組みが、鏡と剣と玉という象徴を用いて、詳しく記述されています。古代の日本人が持っていた物=霊の思想を現代に再び、蘇らせることが必要です。
ドゥルーズの表現で言えば、複素空間は〈巻き込み〉の空間です。一方、時間と空間は〈繰り広げ〉の空間です。両者はどちらが先行しているか甲乙つけがたい関係にありますが、はっきり言えるのは、現在の人間の認識においては、時間と空間が先行しているということです。巻き込みの空間は無意識化しているということです。
この先行性のために、複素空間は時間と空間に対して、圧が低い状態になっていて、ちょうど台風のように、時間と空間として出現している人間の意識を内部に巻き込んでいます。光子なんかはその巻き込みの最初の部分です。しかし、この巻き込みにおいては、自己と他者の渦は互いに逆向きになっていて、そこに二つの主観性が立ち上がっています。光子で言えば、スピンの固有値の1と−1がそれに当たります。
問題はこの二つの主観性が、複素空間の内部に存在する高次元のシステムによって、元の〈繰り広げ〉の場へと同一化させられて、吐き出されているところにあります。〈繰り広げ〉と〈巻き込み〉が反復のループを作っているわけですね。これがフロイトやラカンなんかがいう無意識の反復のシステムです。
この反復回路を切断して、この存在のループから抜け出すためには、先行性を時間と空間ではなく、複素空間の方に持たせる必要があります。それがヌーソロジーでいう「顕在化」です。「反転の創造空間」というやつですね。
11月 7 2014
3次元球面の風景
強度的空間の入口としての奥行き。運動量空間。奥行きの幅に対する直交性は位置空間に対する運動量空間の直交性に同じ。局所的位置に対する見るものと見られるものの関係に同じ。位置空間はイメージ、運動量空間は持続。
空間をわれわれの内在性として見るための概念を多数、構築すること。そして、その概念を量子構造と重ね合わせること。それによって物理学の意味と価値を異なる仕方の中で解釈すること。そして、この解釈の体系に内的一貫性を持たせること。これのみが意味の反-実現化のための唯一の方法である。
現在の物理学は力の単なる名目的定義に終わってしまっている。力の根拠があまりに不明確なのだ。世界像の崩落はこの力の根拠の不明確性に由来している。力を実在的に定義できる思考が必要だ。それのみが哲学と物理学との接合を可能とし、トランスフィジカルな新しい思想を作り出す。
「主体が世界にとって存在するためには、世界を主体の中におかなくてはならない。このねじれこそが、まさに世界と魂の襞を構成する(『襞』p.47)」とドゥルーズは言う。世界の中にある主体と、主体の中にある世界。この相互反転性をストレートに空間の中にイメージできるようになること。
ドゥルーズのいうこの「捻れ」が微視的領域に現れたものがuクォークとdクォークではないかと考えている。すなわち、主体における「前」と「後ろ」。
3次元球面を通常の2次元球面の延長線上に考えても、その実質は決してつかめないと思う。3次元球面上の一点は主体の観点以外にはあり得ない。観点の自転が+∞と−∞を接続させている。
モノが3次元球面に見えてきたとき、認識は時間と空間の発生場所を知ることになるのだろう。そして、おそらく、そのときモノは単一の存在として現れる。それはもはやモノの観念のカタチと呼ぶべきだろうか。あらゆる記憶はこのモノの観念の中を横行している。個別のモノはこの記憶との対比で認識される。
単一の存在としてのモノは個別の存在としてのモノへと射影されているのだ。そして、この単一の存在としてのモノが、われわれが陽子と呼んでいるものの正体ではないだろうか。
モノをあたかも外側から包摂するように見えているわれわれの認識は、実はそのままモノの内包性へと滑り込んでいる。この空間を切り開くことが、今からの人間の思考の方向性とならなくてはいけない。そして、そこに自らの内在としての生を見出すこと。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0