11月 12 2014
文字は踊る
福岡のヌースレクチャーに毎回のように参加していただいている一鬼香葉さんという方がいる。一鬼さんは書道の大先生で、たくさんの子供たちに書の楽しさを教えていらっしゃる。2ケ月ほど前だったろうか、一鬼さんから「今度、『墨&彩展』というタイトルで、子供たちの書の展覧会を開催するので、是非、いらして下さい」というお誘いがあった。何気に訪れてみた展覧会だったが、衝撃を受けた。一鬼さんがその場におられなかったので、感謝の言葉と短い感想をカードにしたためて、その場をあとにした。
後日、一鬼さんがオフィスにお出でになった。何でも、書を書いているときの子供たちとその親御さんたちの様子や、展覧会の模様を一冊の写真集にしてまとめたいということだった。カードに遺した僕の言葉をいたく気にいって下さり、写真集の中にも何かヌース的なメッセージをいただけないかという依頼を受けた。
その写真集が先週、出来上がってきて僕の手元に届いた。子供たちの笑顔が満載の写真集。そして、躍動感溢れる、子供たちの作品の数々。
見てるだけで幸せな気分になる。ありがたいことに、僕の書いたメッセージを写真集のど真ん中に見開きで載せてくれている。
一鬼さんの許可をいただいたので、そのメッセージをここでも紹介させていただきます。
文字は踊る
一鬼さんに誘われて、『墨&彩展』の展覧会に足を運んだ。
何でも小さな子供たちに、思うままに書を書かせてみたのだという。
中にはわずか1歳半の子もいるという。
そんな小さな子供たちに一体どんな書が書けるというのだろう。
単なる好奇心から、会場へと足を運んだ。
中に入った瞬間、驚いた。
そこには一つの別の宇宙が広がっていた。
まるで宇宙がビッグバンを起こしたときのような、
ものすごいプリミティブなエネルギーが一つ一つの作品からほとばしっていた。
体の中の細胞のひとつひとつがそのエネルギーに反応した。
そして、深く深く感じ入った。
これが一糸纏わぬいのちの姿なのだろうと。
いのちは回っている。
いのちはぐるぐると回っている。
死んでいくのも、いのち。
生まれてくるのも、いのち。
いのちはこの生と死のあいだで、
ほんとのいのちを生きている。
いのちは言葉を学ぶ。
言葉を学んで自分を生きる。
でも、生きることの中には、
言葉で表現できないこともある。
言葉になりたくても、
言葉から、こぼれ落ちてしまういのち。
それをわたしたちは「声」と呼んでいる。
笑い声のなかには何があるのだろう?
泣き声のなかには何があるのだろう?
つぶやく声に、おこる声。
はにかむ声に、はしゃぐ声。
声は言葉を超えている。
だから、声は言葉の前にあり、
声は言葉の後にもある。
おそらく、言葉を十分味わいつくしたあとに、
いのちは、また、声のなかへと帰っていく。
声の中でいのちが震え、
いのちの中で声が震え、
いのちは純粋な内震えとなって、
声の中へと帰っていく。
そして、そこから新しいいのちがまたひとつ。
言葉を知らないこどもたちだけが、
声がいのちであるということを知っている。
その声を受けて、文字は踊るのだ。
※ ※ ※
こんな素晴らしい展覧会を企画していただいた一鬼さんに、
この場を借りて、あらためて、こころからお礼を言わせていただきます。
ありがとうございました。
半田広宣
11月 19 2014
ヌーソロジーの素粒子論
次回のヌースレクチャーでは現代物理学の話をしようと思います。おそらく、ヌーソロジーから見た素粒子空間の話がメインになるでしょう。
現代物理学は物質の大本の構成要素を素粒子と見なしているわけですが、ここには相変わらず、素粒子を対象として見なす認識の型が働いています。OCOT情報のいう人間型ゲシュタルトというやつですね。
波動関数ψ(x,t)という複雑な数式で表現されている様々な素粒子の有様(ありよう)も、相変わらず「観察される対象」であって、それは、それらの数式が時間tと空間xをパラメーターとして関数化されているところにも表れています。対象は、たとえどんな運動をしていようとも、常に時間と空間の中になければならない、とする考え方です。
しかし、素粒子は、観測問題などで取り沙汰されているように、普通の対象とは全く別の性質を持ったものです。何らかのかたちで観測者を巻き込んだ形で存在しているんですね。観測問題というのは、本来、波動関数ψ(x,t)の状態で存在している素粒子が、人間の観測が波動関数の崩壊を起こす原因となっていて、それによって、はじめて測定値がある値に定まるというものです。
この「観測」ですが、これは、数学的には「波動関数ψ(x,t)の微分」という形で表されていると考えることができます。たとえば、運動量の導出は波動関数ψ(x,t)を位置xで微分することによって、エネルギーであれば、同じく波動関数ψ(x,t)を時間tで微分すると出てきます。しかし、波動関数ψ(x,t)自体は指数関数の形をしているので、微分しても常に元の関数は残されて、導き出された物理量に対して、常に位相因子としてくっついてきます。
分かりやすく言えば、計算によって素粒子の運動量やエネルギーが導き出されたとしても、そこに、つねにψ(x,t)がくっついていて、複素平面上の回転として表される何かがグルグルと回っているわけです。このグルグルは、現在、物理学では「確率の変動」として解釈されています。たとえ、運動量pが導き出されたとしても、それは確率的にしか把握されない、というわけです。これは位置xにしても、エネルギーEにしても、同じです。
波動関数ψ(x,t)に対するこうした確率解釈から、物質は確率的存在でしかないという言説が生まれ、それが宇宙全体に拡大解釈されて、並行宇宙仮説なんかが出てきています。この仮説は現在のスピ系の思想や哲学系の思想にもかなり影響を与えていますよね。宇宙は選択によってその瞬間、瞬間に分岐してるとか、非共可能的次元の世界が存在するとか、いろいろですが。
でも、個人的には、この確率解釈は、物理学が時間と空間を先行させて、そこに実在の形式を見ているために生まれている誤った解釈のように思えます。つまり、わたしたちが実在と見なしているような宇宙が、無数、枝分かれしたような別の宇宙などといったものは存在しない、ということです。ヌーソロジーの観点からから見ると、この確率は、むしろ、時間と空間が認識に生じる以前の、人間個々の想像力のフィールドで生まれている「共可能的次元」の表現です。
この共可能的次元が、自己の内部次元、さらには、自己-他者間で、総合化されていくことによって(物理学的には対称性の拡張に当たります、)時間と空間という、自他の間で相互了解が取れる客観的実在の場所が認識に生じてくる、という仕組みになっていると考えています。
いずれにしろ、ヌーソロジーの思考から見ると、素粒子世界というのは、ドゴン族のいう〈先導記号〉のごときものであるということですね。わたしたちの世界に対する認識を可能にさせている、哲学の言葉でいうなら〈超越論的構成〉を持った幾何学構造体です。
今回のレクチャーでは、こうした観点から、素粒子世界を貫いているシステムを、奥行きと幅の差異の概念をベースに具体的に説明してみようかな、と思っています。
位置空間と運動量空間の反転関係、確率解釈、波動関数の崩壊、スピン1/2空間、など、素粒子世界が内在させている様々なナゾの解明に観察子の概念がいかに有用かが、参加された皆さんにも、かなり伝わることでしょう。
いや、全然、伝わらなかったりもして(笑)
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 波動関数, 素粒子